島崎藤村 『新生』 「幽霊」…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 島崎藤村 『新生』

現代語化

「幽霊」
「足が悪い」
「詳しいこと話してみないとわかんないけどー」
「こないだ布施が来てさー布施って俺と大親友なんだけど、そいつが言うには、『お前んとこまだ嫁に行ってない娘がいるんだろ、他所くれてもいいのか』って俺に聞くんだ。『くれてもいいどころか』って俺が言うと、『よし、じゃぁ俺が仲人しよう』って。そこで貰おう、くれようって話が始まったんだ。何しろ、向こうの家の財産は5万以上あるんだって。おまけに布施のほうでは、こっちのことは一切調べないって言うんだぜ。こんなおいしい話ないじゃん。節ちゃんもいい年だし、こんな良い貰い手があるときに俺のほうでは嫁がせたいんだけど、本人が拒否なんだ。いろいろそこにややこしいことがあってー俺のほうでちょっと言い過ぎたこともあったんだけどーなんか、昨夜なんか節ちゃんの様子が変なんだ。夜遅くまで荷造りする音がする。家出するんじゃないかって、祖母さんが心配してる。ちょうどまた変なことがあってさ、祖母さんが一ちゃんに買い物に行っておいでって言って5円札を一枚長火鉢の上に置いてったんだけど、その5円札がなくなっちゃったんだ。一ちゃんは知らないって言うし、祖母さんは確かに置いたって言うし、まさか節ちゃんが盗るようなことはないだろうけど、疑ってみれば家出するつもりで盗んだとも言えない……」
「節ちゃんそんな人じゃないですよ」
「あの子に限って、物を置いて行こうと盗むような人じゃないですよ」
「それはそうだけどさー」
「とにかく、あの様子じゃ危なくて仕方ない。今朝は中根に電話して、テルにも来てもらうことにした。テルでも来たら、どう節ちゃんも落ち着くかわかんないけど、俺はそのままにしてお前のところに来たんだ。節ちゃんは何て言うかと思ったらー馬鹿な、この良い話を偽装結婚だなんて。偽装結婚って何だ。みんなそういう風に嫁に行くんだって。中根がテルをもらうときだって、向こうで俺の娘見たことないんだ。テルのほうだって知らない。それでも結婚してみれば、あの通り幸せな家庭築ける。ま、誰が見たって、あれなら申し分のない夫婦だっていうよ。どこで誰だって、女に生まれて今嫁に行かないなんてことはない。もしあるとしたら、そんなのは足が悪いんだ。俺の田舎には何百軒という家があって、一人としてその家に結婚しないような女はいない。一村の中でたった一人結婚しない女がいる。お霜ばあさんって女だけが一生独りで暮した。それだけだ。それ見ろ、結婚しないなんてことは人間の仲間に入れないことだ。一度はお嫁に行かなきゃいけない。一度行って、出て来たものなら、またそれでもいい。一度も行かないなんてことはないんだ。例えばさ、嘉代の死んだときにあちこちに通知を出しただろ、この葉書の裏に親戚総代として岸本捨吉と連名になってる田辺弘とあるのはこれはお節さんの旦那さんの名ですかなんて、田舎に行ってもすぐにそんなこと聞かれる。世の中ってそういうもんだ」
「それで、お兄さんはどうするつもりなんですか」
「だから明日でも節ちゃんをここへ呼んでさ、お前からもよく説得してほしい」
「私からそれを説得することはできません」
「これでお前が奥さんももらわずにいるなんてこともちょっとは節ちゃんに響いてるんだって。遠心力みたいなもので、遠回りで引っ張ってる感じがあるんだって。節ちゃんもあれで一度はお嫁に行く気になったんだ。お前がフランスに行って留守の間に、一度はお見合いの写真まで撮ったんだ。もともと、お前が旅から帰ってこないうちに彼女を嫁がせようと思ってたんだ。なんか近頃の彼女の様子は、自分の産んだ子供のことでもしきりに聞きたがってるような感じに見える。ほら、例の件でよろしくお世話になった看護婦がいただろ。あの看護婦も今は病院の助手で、時々俺の家にも訪ねてくるんだ。どうも見るに、節ちゃんがその看護婦から子供のことでも聞き出そうとしてるらしい。下手にそんな話を聞かされては、それこそ大変だ。禁止。禁止。それで俺はあの看護婦に厳しくその話はさせないようにしたんだけど。ま、台湾のお兄さんでもこういう時に東京に家を持ってるなら、あそこの家に節ちゃんを預ける。俺としては、それが一番いい考えだな。とにかく、あの様子は危なくて仕方ない。昨夜の節ちゃんとなったら、どんな間違いを起こすかわかんないような感じさ。考えてみると、世の中のことは表と裏があるよね。去年台湾のお兄さんが出てきたときにさ、兄さんがめちゃくちゃにお前のことを誉めて、捨吉だけは無難だ、彼だけは兄弟の中で一番安心だって言うじゃないか。その一番安心なお前がーこれで兄さんも知らないようなことがあるんだからねえ。俺はその時可笑しくなったよ。兄さんがそう言って知らずにいるところが可笑しくなった。だけど、俺は岸本家のことを考える。先祖伝来の岸本家の名誉ということを考える、中身はどうあれさ、岸本捨吉で立てとけば人も知らずに済むし、家の名も汚さずに済むし、先祖に対しても面目を失わないというものだ。俺はそんくらい大きく考えてる。岸本家の名誉に比べれば、節ちゃん一人の間違いなんてどうでもいいことだ。むしろあんなものは間違いがあればいいくらいに考えてる。そのくらい俺は岸本兄弟のためというのを重く見てる」

原文 (会話文抽出)

「幽霊」
「片輪」
「委しいことを話して見なければ解らんが――」
「こないだ布施が来て――布施と俺とは大の仲好しだから、あの男が言うには、『君の許には未だ嫁かない娘さんがあるようだが、他へくれても可いのか』と俺に訊いた。『くれても可いどころじゃない』と俺が言うと、『よし、そんなら僕が仲人に立とう』と。そこで貰おう、くれようという話が始まった。何しろ、先方の家の財産は五万円から有るというんだ。おまけに布施の方では、一切是方のことは調べないと言うんだぜ。こんなウマい話は一寸無いサ。節ちゃんももう好い歳だから、こんな好い貰い手のある時に俺の方では嫁けてしまいたいとそう思うんだが、彼女が不承知だ。いろいろそこにはゴタゴタしたことがあって――俺の方で少し言い過ぎたようなこともあったが――何だか、昨夜なぞは節ちゃんの様子が変だ。遅くまで掛って荷物なぞを片付ける音がする。家でも出てしまうんじゃないかと、祖母さんは心配する。丁度また妙なことがあるもので、祖母さんが一ちゃんに買物に行ってお出と言って、五円札を一枚長火鉢の上に載せて置いたところが、その五円札が失くなった。一ちゃんは知らないと言うし、祖母さんは確かに置いたと言うし、まさか節ちゃんが取るようなことはすまいが、しかし疑って見れば家を出るつもりで取らんとも言えない……」
「節ちゃんはそんな人じゃ有りません」
「あの人に限って、物を置いて行こうとも、取るような人じゃ有りません」
「それはまあどうでも可いとしたところで――」
「何しろ、あの様子じゃ危くて仕様が無い。今朝は中根へ電話を掛けて、輝にも来て貰うことにした。輝でも来たら、どう節ちゃんも落付くものか知らんが、俺はそのままにしてお前の許へやって来た。節ちゃんが何と言うかと思ったら――馬鹿な、この好い話を虚偽の結婚だなんて。虚偽の結婚とは何だ。誰だってそういう風にしてお嫁に行く。中根が輝を貰う時だって、先方で俺の娘を見たことも無い。輝の方だっても知らない。それでも結婚して見れば、あの通り幸福な家庭を造れる。まあ誰が見たって、あれなら申分の無い夫婦というものだサ。何処の誰だって、女と生れて来て、今日お嫁に行かないようなものは無い。もしあれば、そんなものは片輪だ。俺の田舎には何百軒という家があって、一人としてその家に結婚しないような女は居ない。一箇村の中で唯一人結婚しない女がある。お霜婆さんという女だけが一生独りで暮した。それだけだ。それ見ろ、結婚しないなんてことは人間の仲間に入れないことだ。一度はお嫁に行かんけりゃ成らん。一度行って、出て来たものなら、またそれでも可い。一度も行かんという法はないサ。例えばだ、嘉代の死んだに就いて諸方へ通知を出したろう、この葉書の裏に親戚総代として岸本捨吉と連名になっている田辺弘とあるのはこれはお節さんの旦那さんの名ですかなんて、田舎の方へ行っても直ぐにそんなことを訊かれる。世間というものはそういうものだサ」
「それで、兄さんはどうしようというんですか」
「だから明日でも節ちゃんをお前のところへ呼んでサ、お前からもよく彼女に勧めて貰いたい」
「私からそれを勧めることは出来ません」
「これでお前が細君も貰わずにいるなんてこともいくらか節ちゃんの方に響いているテ。遠心力のようなもので、遠廻しに引いている気味があるテ。節ちゃんもあれで一度はお嫁に行く気になったんだ。お前が仏蘭西に行って留守の間に、一度は見合の写真までうつさしたものだサ。一体言うと、お前が旅から帰らない中に彼女は嫁けてしまうつもりだった。何だか近頃の彼女の様子は、自分の産んだ子供のことでもしきりに聞きたがってるような風に見える。ホラ、例の一件で宜しく世話になった看護婦があったろう。あの看護婦も今は病院の助手で、時々俺の家へも訪ねて来るサ。どうも見るのに、節ちゃんがあの看護婦から何か子供のことでも引出そうとしているらしい。下手にそんな話を聞かされては、それこそ大変だ。禁物。禁物。それで俺はあの看護婦に堅くその話を封じて置いたが。まあ、台湾の兄貴でもこういう時に東京に家を持ってると、あの兄貴の家へ節ちゃんを預けてしまう。俺としては、それが上分別だ。何にしても、あの様子は危くて仕様が無い。昨夜の節ちゃんと来たら、どんな間違いを起すか知れないような風サ。考えて見ると、世の中のことは実もあり蓋もありさネ。去年台湾の兄貴が出て来た時にサ、兄貴が莫迦にお前のことを褒めて、捨吉だけは無難だ、彼だけはまあ兄弟中で一番安心だ、と言うじゃないか。その一番安心なお前が――これで兄貴も知らないようなことが有るんだからねえ。俺はその時可笑しくなった。兄貴がそう言って知らずにいるところが可笑しくなった。しかし、俺は岸本の家ということを考える。祖先伝来の岸本の家の名誉ということを考える、中味はともあれだ、岸本捨吉で立てて置けば人も知らずに済むし、家の名前も汚さずに済むし、祖先に対しても面目を失わないというものだ。俺はそのくらい大きく考えてる。岸本の家の名誉に比べたら、節ちゃん一人の間違いぐらいは何でもないことだ。寧ろあんなものは間違いがあってくれれば可いぐらいに考えてる。そのくらい俺は岸本兄弟のためという事を重く視てる」


青空文庫現代語化 Home リスト