夏目漱石 『三四郎』 「まだよほどかかりますか」…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 夏目漱石 『三四郎』

現代語化

「まだだいぶかかるの?」
「あと一時間くらい」
「小川さん、里見さんの目を見てごらんよ」
「ダメだよ。横向いちゃったらダメだ。今描き始めたところなのに」
「なんで余計なこと言うんですか」
「からかったわけじゃないよ。小川さんに話したいことがあったんだ」
「何?」
「これから話すから、元の姿勢に戻って。そう。もっと腕を前に出して。それで小川さん、俺が描いた目が、実際の表情通りになってるかな」
「どうだかよくわかりません。そもそも毎日毎日描いてるのに、描かれてる人の目の表情がいつも同じなのって不思議じゃないですか?」
「変わるよ。本人が変わるだけじゃなくて、絵描きの方の気分も毎日変わるんだから、本当を言うと、肖像画はいくらでもできあがらなきゃいけないんだけど、そうはならない。でもたった一枚でかなりまとまったものができるのは不思議なんだ。だってほら見て……」
「毎日こうやって描いていると、だんだん絵に一定の雰囲気が出てくる。だから、たとえ他の気分で外から帰ってきたとしても、アトリエに入って絵に向かえば、すぐに一定の気分になれる。つまり絵の中の雰囲気がこっちに伝わってくるんだ。里見さんも同じだよ。自然のままにしておけばいろんな刺激でいろんな表情になるはずなのに、それが実際絵に大きな影響を与えないのは、そういう姿勢とか、こういう乱雑な太鼓とか、鎧とか、虎の皮とかいう周りのものが、自然と一定の表情を生み出すようになってきて、その習慣がだんだん他の表情を抑えるほど強くなってくるから、たいていの場合、この目つきをこのまま描き進めればいいんだ。それに表情だって……」
「里見さん、どうしたんですか?」
「いいえ」
「それに表情だって」
「絵描きはね、心を描くわけじゃない。心が外に表れているところを描くんだから、表れさえちゃんと見ておけば、中身は自然と分かるもんだよ。表れで分からない中身は絵描きが責任を持つべきことじゃないと、まあそうしてるんだ。俺たちは肉だけを描いてる。どんな肉を描いたって、魂が宿らなければ、死肉だから、絵として認めないだけだ。だからこの里見さんの目もね。里見さんの心を描くつもりで描いてるんじゃない。ただ目として描いてる。この目が気に入ったから描いてる。この目の形とか、二重の影とか、瞳の奥行きとか、俺に見えるところだけを全部描いていく。そうすると偶然の結果として、一種の表情が出てくる。もし出てこなければ、俺の色使いが悪かったか、形の取り方がおかしかったか、どっちかになる。そもそもあの色あの形そのものが一種の表情なんだから仕方ない」
「なんか今日は変ですね。疲れたんですか?疲れたらもうやめましょう。――疲れましたか?」
「いいえ」
「それで、俺がなぜ里見さんの目を選んだかというとね。話すから聞いて。西洋画の女性の顔を見ると、誰のかいた美人でも、必ず大きな目をしてる。おかしいくらい大きな目ばかりだ。でも日本では観音様から始まって、お多福、能の面、中でも浮世絵の美人ってのは、みんな細い目をしてる。みんな象みたいに見える。なんで東西で美の基準がこんなに違うのかって思うと、ちょっと不思議でしょ。でも実は簡単なんだ。西洋には大きな目の人ばっかりいるから、大きな目の中で、美的淘汰が行われている。日本は鯨の系統ばっかりだから――ピエール・ロティって人が、日本人の目は、あれでどうやって開けてるんだろうかって揶揄してる。――そういう国柄だから、どうしたって少ない大きな目に対する美意識が発達しようがない。それで選べる範囲の細い目の中で、理想ができて、歌麿とか祐信とかが珍重されるようになったんだ。でもどんなに日本的でも、西洋画には、ああいう細い目は目の見えない人の目みたいでみっともなくってダメだ。かといって、ラファエルの聖母みたいなのは、全然ないし、あったところで日本人って言われないから、それで里見さんにお願いしたわけさ。里見さん、もう少しですよ」

原文 (会話文抽出)

「まだよほどかかりますか」
「もう一時間ばかり」
「小川さん。里見さんの目を見てごらん」
「いけない。横を向いてしまっちゃ、いけない。今かきだしたばかりだのに」
「なぜよけいな事をおっしゃる」
「ひやかしたんじゃない。小川さんに話す事があったんです」
「何を」
「これから話すから、まあ元のとおりの姿勢に復してください。そう。もう少し肱を前へ出して。それで小川さん、ぼくの描いた目が、実物の表情どおりできているかね」
「どうもよくわからんですが。いったいこうやって、毎日毎日描いているのに、描かれる人の目の表情がいつも変らずにいるものでしょうか」
「それは変るだろう。本人が変るばかりじゃない、画工のほうの気分も毎日変るんだから、本当を言うと、肖像画が何枚でもできあがらなくっちゃならないわけだが、そうはいかない。またたった一枚でかなりまとまったものができるから不思議だ。なぜといって見たまえ……」
「こうやって毎日描いていると、毎日の量が積もり積もって、しばらくするうちに、描いている絵に一定の気分ができてくる。だから、たといほかの気分で戸外から帰って来ても、画室へはいって、絵に向かいさえすれば、じきに一種一定の気分になれる。つまり絵の中の気分が、こっちへ乗り移るのだね。里見さんだって同じ事だ。しぜんのままにほうっておけばいろいろの刺激でいろいろの表情になるにきまっているんだが、それがじっさい絵のうえへ大した影響を及ぼさないのは、ああいう姿勢や、こういう乱雑な鼓だとか、鎧だとか、虎の皮だとかいう周囲のものが、しぜんに一種一定の表情を引き起こすようになってきて、その習慣が次第にほかの表情を圧迫するほど強くなるから、まあたいていなら、この目つきをこのままで仕上げていけばいいんだね。それに表情といったって……」
「里見さん、どうかしましたか」
「いいえ」
「それに表情といったって」
「画工はね、心を描くんじゃない。心が外へ見世を出しているところを描くんだから、見世さえ手落ちなく観察すれば、身代はおのずからわかるものと、まあ、そうしておくんだね。見世でうかがえない身代は画工の担任区域以外とあきらめべきものだよ。だから我々は肉ばかり描いている。どんな肉を描いたって、霊がこもらなければ、死肉だから、絵として通用しないだけだ。そこでこの里見さんの目もね。里見さんの心を写すつもりで描いているんじゃない。ただ目として描いている。この目が気に入ったから描いている。この目の恰好だの、二重瞼の影だの、眸の深さだの、なんでもぼくに見えるところだけを残りなく描いてゆく。すると偶然の結果として、一種の表情が出てくる。もし出てこなければ、ぼくの色の出しぐあいが悪かったか、恰好の取り方がまちがっていたか、どっちかになる。現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだからしかたがない」
「どうも、きょうはどうかしているね。疲れたんでしょう。疲れたら、もうよしましょう。――疲れましたか」
「いいえ」
「それで、ぼくがなぜ里見さんの目を選んだかというとね。まあ話すから聞きたまえ。西洋画の女の顔を見ると、だれのかいた美人でも、きっと大きな目をしている。おかしいくらい大きな目ばかりだ。ところが日本では観音様をはじめとして、お多福、能の面、もっとも著しいのは浮世絵にあらわれた美人、ことごとく細い。みんな象に似ている。なぜ東西で美の標準がこれほど違うかと思うと、ちょっと不思議だろう。ところがじつはなんでもない。西洋には目の大きいやつばかりいるから、大きい目のうちで、美的淘汰が行なわれる。日本は鯨の系統ばかりだから――ピエルロチーという男は、日本人の目は、あれでどうしてあけるだろうなんてひやかしている。――そら、そういう国柄だから、どうしたって材料の少ない大きな目に対する審美眼が発達しようがない。そこで選択の自由のきく細い目のうちで、理想ができてしまったのが、歌麿になったり、祐信になったりして珍重がられている。しかしいくら日本的でも、西洋画には、ああ細いのは盲目をかいたようでみっともなくっていけない。といって、ラファエルの聖母のようなのは、てんでありゃしないし、あったところが日本人とは言われないから、そこで里見さんを煩わすことになったのさ。里見さんもう少しですよ」


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