夏目漱石 『三四郎』 「出よう」…

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青空文庫図書カード: 夏目漱石 『三四郎』

現代語化

「行こうぜ」
「お前最近何やってんの」
「やっぱり一中節の練習してるよ。もう5つくらい上達した。花紅葉吉原八景とか、小稲半兵衛唐崎心中とか、なかなか面白いのがいっぱいあるんだよ。お前もちょっとやってみない？でもあれ、あんまり大声出っちゃいけないんだって。本来は4畳半の間でやるものなんだそうだよ。でも俺はこの通り声がデカいし、しかも節回しが複雑でなかなか上手くいかない。今度ひとつやるから聞いてくれよ」
「俺はまだいいんだけど、里見恭助なんて、全然ダメだからね。何でか知らねえけど。妹はあんなに上手いのに。この間はとうとう諦めて、もう歌はやめる、その代わりに何かの楽器を習おうって言い出したんだけど、馬鹿囃子を習ったらどうかってお勧めした人がいてね。大笑いだよ」
「本当かい」
「本当だよ。実際に里見が俺に、お前がやるならやってもいいって言ってたくらいだから。あいつって馬鹿囃子に8通り吹き方があるんだってさ」
「お前、やってみれば？あれなら普通の人でもできそうじゃん」
「いや、馬鹿囃子は嫌だ。それよりか鼓が叩いてみたいんだよ。なんでか知らねえけど、鼓の音を聞くと、全然20世紀じゃなくて昔の気分になるからいいんだ。こんな現代にああ間抜けな感じが出せるってだけで、すごい効果があるよ。俺がいくら呑気でも、鼓の音みたいな絵は絶対描けないから」
「描こうともしてないだけじゃねえの」
「描いてないよ。今の東京に住んでる奴らに、悠々とした絵が描けるわけねえだろ。まあ、絵に限ったことじゃないけど。――絵と言えば、この間大学の運動会に行って、里見と野々宮さんの妹の似顔絵を描いてやろうと思ったら、とうとう逃げられちまった。今度こそちゃんとした肖像画を描いて展覧会に出展しようかと思ってるんだけど」
「誰の」
「里見の妹の。日本の女の顔って歌麿式とかそればっかりで、西洋の絵には映えないのが嫌なんだよ。でもあの子と野々宮さんはいい。どっちも絵になる。あの子が団扇を持って、木立を背後に、明るい方を見てるのを等身大で描いてみようかと思ってる。西洋の扇子は嫌味だけど、日本の団扇は新しくっておもしろいだろう。とにかく早く描かないとダメだ。あの子が結婚でもしちゃったら、もうこっちの自由にならないかもしれないんだから」

原文 (会話文抽出)

「出よう」
「君近ごろ何をしているかね」
「やっぱり一中節を稽古している。もう五つほど上げた。花紅葉吉原八景だの、小稲半兵衛唐崎心中だのってなかなかおもしろいのがあるよ。君も少しやってみないか。もっともありゃ、あまり大きな声を出しちゃいけないんだってね。本来が四畳半の座敷にかぎったものだそうだ。ところがぼくがこのとおり大きな声だろう。それに節回しがあれでなかなか込み入っているんで、どうしてもうまくいかん。こんだ一つやるから聞いてくれたまえ」
「それでもぼくはまだいいんだが、里見恭助ときたら、まるで形無しだからね。どういうものかしらん。妹はあんなに器用だのに。このあいだはとうとう降参して、もう歌はやめる、その代り何か楽器を習おうと言いだしたところが、馬鹿囃子をお習いなさらないかと勧めた者があってね。大笑いさ」
「そりゃ本当かい」
「本当とも。現に里見がぼくに、君がやるならやってもいいと言ったくらいだもの。あれで馬鹿囃子には八通り囃し方があるんだそうだ」
「君、やっちゃどうだ。あれなら普通の人間にでもできそうだ」
「いや馬鹿囃子はいやだ。それよりか鼓が打ってみたくってね。なぜだか鼓の音を聞いていると、まったく二十世紀の気がしなくなるからいい。どうして今の世にああ間が抜けていられるだろうと思うと、それだけでたいへんな薬になる。いくらぼくがのん気でも、鼓の音のような絵はとてもかけないから」
「かこうともしないんじゃないか」
「かけないんだもの。今の東京にいる者に悠揚な絵ができるものか。もっとも絵にもかぎるまいけれども。――絵といえば、このあいだ大学の運動会へ行って、里見と野々宮さんの妹のカリカチュアーをかいてやろうと思ったら、とうとう逃げられてしまった。こんだ一つ本当の肖像画をかいて展覧会にでも出そうかと思って」
「だれの」
「里見の妹の。どうも普通の日本の女の顔は歌麿式や何かばかりで、西洋の画布にはうつりが悪くっていけないが、あの女や野々宮さんはいい。両方ともに絵になる。あの女が団扇をかざして、木立をうしろに、明るい方を向いているところを等身に写してみようかしらと思っている。西洋の扇は厭味でいけないが、日本の団扇は新しくっておもしろいだろう。とにかくはやくしないとだめだ。いまに嫁にでもいかれようものなら、そうこっちの自由にいかなくなるかもしれないから」

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