夏目漱石 『三四郎』 「おっかさんのいうことはなるべく聞いてあげ…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 夏目漱石 『三四郎』

現代語化

「お母さんの言うことはなるべく聞いておいたほうがいいよ。今の若い奴らは俺たちの時代と違って自分のことが大好きすぎる。俺たちが学生だった頃は、することなすこと全部が自分以外の何かのためにやってた。全部が、友達とか、親とか、国家とか、社会とか、みんな他人が基準だったんだ。それを一言で言うと、教育を受ける人間は全部偽善者だったってことだ。その偽善が社会が変わって、とうとう無理できなくなって、だんだん自分のことを第一に考えるようになると、今度は自分のことが大好きになりすぎてしまった。昔の偽善者に対して、今はみんな自分の汚いところばっかり見せびらかす奴らばっかりの状態なんだ。――お前、自分の汚いところを見せびらかす奴って言葉、聞いたことある?」
「ないよ」
「今、俺がテキトーに作った言葉なんだ。お前もそのそういう奴の一人――かどうかはわかんないけど、まあ多分そうだろう。与次郎みたいにひどい奴は、その最たるものだ。お前が知ってる里見っていう女も、ある意味そういう奴で、それから野々宮の妹も、あれはあれなりにそういう奴だから面白い。昔は偉い人とお父さんだけがそういうことが許されてたけど、今は誰でも好きなだけそういうことができる。別に悪いことでもないんだ。臭いもののフタを取ったら便器で、立派な形を剥がすとたいていは汚いものが出るってことは分かってる。形だけ立派だと面倒なだけだから、みんな節約してありのままの姿で済ませてる。すごく気持ちいいよ。すごく汚いんだけどね。でもこの汚さが度が過ぎると、そういう奴同士がお互いに迷惑を感じるようになる。その迷惑がどんどん大きくなって極限に達すると、助け合おうって気持ちがまた復活する。それがまたみんなで協力すると腐敗しちゃって、また自分のことばかり考えるようになる。つまり際限がないんだ。俺たちはそういうふうに生きていくもんだと思ってればいい。そうやっていくうちに成長するんだ。英国を見てみろ。この二つの考え方が昔からのうまくバランスが取れている。だから動かない。だから成長しない。イブセンも出なければニーチェも出ない。あいつらかわいそうだよ。自分たちで得意げにしてるけど、外から見たら古くなって、化石みたいになってるよ……」
「結局何を話してたんだよ」
「結婚の話」
「結婚?」
「うん、俺がお母さんの言うことを聞いて……」
「うん、そうそう。なるべくお母さんの言うことを聞かないといけない」
「俺たちが自分の汚いところを見せびらかす奴なのはいいんだけど、先生方の時代の人が偽善者なのはどういう意味ですか?」
「お前、人から親切にされると嬉しいか?」
「うん、まあ嬉しいかな」
「本当か? 俺はそうじゃない、すごく親切にされると不愉快なことがある」
「どんな時ですか?」
「形だけ親切にしてるのに、親切そのものが目的じゃない時」
「そんな時ってあるんですか?」
「お前、お正月に『おめでとう』って言われて、本当に嬉しい気分になるか?」
「それは……」
「ならないだろう。それと一緒で、腹を抱えて笑うとか、のたうちまわって笑うとか言う奴に、本当に笑ってる奴なんて一人もいない。親切もそれと一緒だ。仕事として親切にしてる奴がいるんだ。俺が学校で教師してるみたいなもんだ。実際の目的はお金だから、生徒から見たらきっと不愉快だろう。それに対して与次郎みたいな奴は自分の汚いところを見せびらかす奴のボスだから、しょっちゅう俺に迷惑をかけて、始末の悪い悪戯者だけど、悪気がない。かわいいところがある。ちょうどアメリカ人がお金に対してオープンなのと同じだ。それ自体が目的なんだ。それ自体が目的である行動ほど正直なものはないし、正直なものほど嫌味がないから、何でも正直に出られない俺たちの時代みたいに、難しい教育を受けた奴らはみんな鼻につくんだ」

原文 (会話文抽出)

「おっかさんのいうことはなるべく聞いてあげるがよい。近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。――君、露悪家という言葉を聞いたことがありますか」
「いいえ」
「今ぼくが即席に作った言葉だ。君もその露悪家の一人――だかどうだか、まあたぶんそうだろう。与次郎のごときにいたるとその最たるものだ。あの君の知ってる里見という女があるでしょう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね、あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋をとれば肥桶で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。そうしてゆくうちに進歩する。英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡がとれている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、はたから見れば堅くなって、化石しかかっている。……」
「いったい何を話していたのかな」
「結婚の事です」
「結婚?」
「ええ、私が母の言うことを聞いて……」
「うん、そうそう。なるべくおっかさんの言うことを聞かなければいけない」
「我々が露悪家なのは、いいですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういう意味ですか」
「君、人から親切にされて愉快ですか」
「ええ、まあ愉快です」
「きっと? ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある」
「どんな場合ですか」
「形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」
「そんな場合があるでしょうか」
「君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか」
「そりゃ……」
「しないだろう。それと同じく腹をかかえて笑うだの、ころげかえって笑うだのというやつに、一人だってじっさい笑ってるやつはない。親切もそのとおり。お役目に親切をしてくれるのがある。ぼくが学校で教師をしているようなものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たらさだめて不愉快だろう。これに反して与次郎のごときは露悪党の領袖だけに、たびたびぼくに迷惑をかけて、始末におえぬいたずら者だが、悪気がない。可愛らしいところがある。ちょうどアメリカ人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味のないものはないんだから、万事正直に出られないような我々時代の、こむずかしい教育を受けたものはみんな気障だ」


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