夏目漱石 『野分』 「御兄さんの所から御使です」…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 夏目漱石 『野分』

現代語化

「お兄さんから使いが来たよ」
「待ってるかい?」
「ええ」
「何か急用でもありますか」
「うん」
「何の用ですか?」
「ちょっと待って。書いてるから」
「これ」
「何の用なんですか?」
「何の用かわからない。ただ、用があるから、すぐ来てくれって書いてある」
「いらっしゃるでしょう?」
「俺が行けないんだ。行けるならお前行ってきてくれよ」
「私が? 私はダメですわ」
「なんで?」
「だって女ですもの」
「女でも行かないよりはいいだろう」
「だって。あなたに来いって書いてあるんでしょう?」
「俺が行けないんだよ」
「どうして?」
「これから出掛けなきゃいけない」
「雑誌の方なら、一日ぐらいお休みになってもいいでしょう」
「編集ならいいけど、今日は演説をしなきゃいけない」
「演説を? あなたがですか?」
「そうだよ、俺がやるんだ。そんなに驚くことないよ」
「こんなに風が吹くのに、やめられたらいいのに」
「ハハハ、風が吹いてやめるような演説なら最初からしないよ」
「でも滅多にやらない方がよろしいですよ」
「滅多なこととは。何だよ」
「いいえね。あまり演説なんてされないほうが、あなたの得だと申すんです」
「何の得があるっていうんだ?」
「あとが困るかもしれないと申すのです」
「変なことを言うねお前の。――演説しちゃいけないと誰か言ったのかい?」
「誰がそんなことを言うものですか。――おっしゃってはいませんが、お兄さんからこうやって、急用だって、使いが来てるんですから行ってあげないと義理が悪いじゃないですか」
「それじゃあ演説をやめなきゃいけない」
「急に支障が出たと断わったらいいでしょう」
「今さらそんな失礼なことはできないよ」
「じゃあお兄さんの方には失礼をなさっても、いいとおっしゃるんですか?」
「いいとは言ってない。でも演説会の方は前から約束したもので――それに今日の演説は普通の演説じゃない。人を救うための演説なんだ」
「人を救うって、誰を救うんですか?」
「会社の者で、この間の電車事件を煽動したとして逮捕された人がいるんだ。――そしたらその家族がひどい目に遭ってるからかわいそうで見過ごせないから、演説会をしてそのお金をそちらに送る計画なんだ」
「そんな人の家族を救うのはいいことでしょうけど、社会主義だって間違えられるとあとが困りますから……」
「間違えられても構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、ただ正しい道がいいんだ」
「だって、もしあなたが、その人のようになったらどうですか。私はきっと、その奥さんと同じように、ひどい目に遭いますよ。人を救うのもいいけど、少しは私のことも考えて、やってくださらないと、ひどすぎますわ」
「そんなことはないよ。そんな馬鹿なことはないよ。徳川時代じゃないんだから」

原文 (会話文抽出)

「御兄さんの所から御使です」
「待ってるかい」
「ええ」
「何か急用ででもござんすか」
「うん」
「何の御用ですか」
「ええ? ちょっと待った。書いてしまうから」
「これを」
「何の御用なんですか」
「何の用かわからない。ただ、用があるから、すぐ来てくれとかいてある」
「いらっしゃるでしょう」
「おれは行かれない。なんならお前行って見てくれ」
「私が? 私は駄目ですわ」
「なぜ」
「だって女ですもの」
「女でも行かないよりいいだろう」
「だって。あなたに来いと書いてあるんでしょう」
「おれは行かれないもの」
「どうして?」
「これから出掛けなくっちゃならん」
「雑誌の方なら、一日ぐらい御休みになってもいいでしょう」
「編輯ならいいが、今日は演説をやらなくっちゃならん」
「演説を? あなたがですか?」
「そうよ、おれがやるのさ。そんなに驚ろく事はなかろう」
「こんなに風が吹くのに、よしになさればいいのに」
「ハハハハ風が吹いてやめるような演説なら始めからやりゃしない」
「ですけれども滅多な事はなさらない方がよござんすよ」
「滅多な事とは。何がさ」
「いいえね。あんまり演説なんかなさらない方が、あなたの得だと云うんです」
「なに得な事があるものか」
「あとが困るかも知れないと申すのです」
「妙な事を云うね御前は。――演説をしちゃいけないと誰か云ったのかね」
「誰がそんな事を云うものですか。――云いやしませんが、御兄さんからこうやって、急用だって、御使が来ているんですから行って上げなくっては義理がわるいじゃありませんか」
「それじゃ演説をやめなくっちゃならない」
「急に差支が出来たって断わったらいいでしょう」
「今さらそんな不義理が出来るものか」
「では御兄さんの方へは不義理をなすっても、いいとおっしゃるんですか」
「いいとは云わない。しかし演説会の方は前からの約束で――それに今日の演説はただの演説ではない。人を救うための演説だよ」
「人を救うって、誰を救うのです」
「社のもので、この間の電車事件を煽動したと云う嫌疑で引っ張られたものがある。――ところがその家族が非常な惨状に陥って見るに忍びないから、演説会をしてその収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ」
「そんな人の家族を救うのは結構な事に相違ないでしょうが、社会主義だなんて間違えられるとあとが困りますから……」
「間違えたって構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、ただ正しい道がいいのさ」
「だって、もしあなたが、その人のようになったとして御覧なさい。私はやっぱり、その人の奥さん同様な、ひどい目に逢わなけりゃならないでしょう。人を御救いなさるのも結構ですが、ちっとは私の事も考えて、やって下さらなくっちゃ、あんまりですわ」
「そんな事はないよ。そんな馬鹿な事はないよ。徳川政府の時代じゃあるまいし」


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