夏目漱石 『行人』 「宅のものがその娘さんの精神に異状があると…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 夏目漱石 『行人』

現代語化

「うちの人がその娘の精神に異常があるってはっきり認めてからはまだよかったけど、知らないうちは今言った通り俺もその娘の露骨なのにずいぶん悩まされた。父や母は苦い顔する。台所の奴らはくすくす笑う。俺も仕方なく、その娘が俺を送って玄関まで来たとき、激しく怒鳴りつけてやろうと思って、二三度振り返ったんだけど、顔を合わせた途端、怒るどころか、きつい言葉なんかは可哀想でとても口から出せなくなった。その娘は青い色の美人だった。そして黒い眉毛と黒い大きな瞳を持ってた。その黒い瞳はいつも遠くの夢を見てるみたいにうっとり潤って、なんだか頼りなさそうな哀れさを漂わせてた。俺が怒ろうと思って振り返ると、その娘は玄関に膝をついてあたかも自分の孤独を訴えるみたいに、その黒い瞳を俺に向けた。俺はそのたびに娘から、こうして生きててもたった一人で寂しくてたまらないから、どうか助けてくださいと袖にすがられるように感じた。――あの瞳がさ。あの黒い大きな瞳が俺にそう訴えるんだ」
「君に惚れたのかな?」
「それがさ。病人のことだから恋愛なのか病気なのか、誰にも分かるはずがないよ」
「色情狂っていうのは、そんなもんじゃないのかな?」
「色情狂っていうのは、誰にでもすがるもんじゃないの?その娘はただ俺を送って出て来て、早く帰って来てねって言うだけなんだから違うよ」
「そうか」
「俺は病気でも何でもいいから、その娘に思われたいんだ。少なくとも俺の方ではそう解釈したいんだ」
「ところが事実はどうもそうでないらしい。その娘の嫁ぎ先の旦那というのが放蕩家なのか交際家なのか知らないけど、何でも新婚早々たびたび家を空けたり、夜遅く帰ったりして、その娘の心をさんざん苛めたらしい。だけどその娘は一言も夫に対して自分の苦しみを言わず我慢してたんだってね。その時のことが頭にこびりついてるから、離婚になった後でも旦那に言いたかったことを病気のせいで俺に言ったんだとか。――だけど俺はそう信じたくない。強く望めばそうでないと信じたい」
「それほど君はその娘が気に入ってたのか?」
「気に入るようになったんだよ。病気が悪くなるにつれて」
「それから。――その娘は」
「死んだ。病院で」
「君から退院を勧められた晩、俺はその娘の三回忌を思い出して、それだけでも帰りたくなった」
「ああ肝心なことを忘れてた」
「何だ?」
「あの女の顔ね、実はその娘にそっくりなんだよ」

原文 (会話文抽出)

「宅のものがその娘さんの精神に異状があるという事を明かに認め出してからはまだよかったが、知らないうちは今云った通り僕もその娘さんの露骨なのにずいぶん弱らせられた。父や母は苦い顔をする。台所のものはないしょでくすくす笑う。僕は仕方がないから、その娘さんが僕を送って玄関まで来た時、烈しく怒りつけてやろうかと思って、二三度後を振り返って見たが、顔を合せるや否や、怒るどころか、邪慳な言葉などは可哀そうでとても口から出せなくなってしまった。その娘さんは蒼い色の美人だった。そうして黒い眉毛と黒い大きな眸をもっていた。その黒い眸は始終遠くの方の夢を眺ているように恍惚と潤って、そこに何だか便のなさそうな憐を漂よわせていた。僕が怒ろうと思ってふり向くと、その娘さんは玄関に膝を突いたなりあたかも自分の孤独を訴えるように、その黒い眸を僕に向けた。僕はそのたびに娘さんから、こうして活きていてもたった一人で淋しくってたまらないから、どうぞ助けて下さいと袖に縋られるように感じた。――その眼がだよ。その黒い大きな眸が僕にそう訴えるのだよ」
「君に惚れたのかな」
「それがさ。病人の事だから恋愛なんだか病気なんだか、誰にも解るはずがないさ」
「色情狂っていうのは、そんなもんじゃないのかな」
「色情狂と云うのは、誰にでもしなだれかかるんじゃないか。その娘さんはただ僕を玄関まで送って出て来て、早く帰って来てちょうだいねと云うだけなんだから違うよ」
「そうか」
「僕は病気でも何でも構わないから、その娘さんに思われたいのだ。少くとも僕の方ではそう解釈していたいのだ」
「ところが事実はどうもそうでないらしい。その娘さんの片づいた先の旦那というのが放蕩家なのか交際家なのか知らないが、何でも新婚早々たびたび家を空けたり、夜遅く帰ったりして、その娘さんの心をさんざん苛めぬいたらしい。けれどもその娘さんは一口も夫に対して自分の苦みを言わずに我慢していたのだね。その時の事が頭に祟っているから、離婚になった後でも旦那に云いたかった事を病気のせいで僕に云ったのだそうだ。――けれども僕はそう信じたくない。強いてもそうでないと信じていたい」
「それほど君はその娘さんが気に入ってたのか」
「気に入るようになったのさ。病気が悪くなればなるほど」
「それから。――その娘さんは」
「死んだ。病院へ入って」
「君から退院を勧められた晩、僕はその娘さんの三回忌を勘定して見て、単にそのためだけでも帰りたくなった」
「ああ肝心の事を忘れた」
「何だ」
「あの女の顔がね、実はその娘さんに好く似ているんだよ」


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