夏目漱石 『硝子戸の中』 「この場合私は労力を売りに行ったのではない…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 夏目漱石 『硝子戸の中』

現代語化

「今回の件では、私は労力を売ったわけではないんです。頼まれれば好意で引き受けたので、相手も好意で応えてくれたらいいと思うんです。もし報酬の問題にするつもりなら、最初から『お礼としていくら出しますが、来てもらえますか』と相談すべきでしょう」
「でもどうでしょう。その10円はあなたの労力を買ったという意味ではなく、あなたに対する感謝の気持ちを表す一つの手段と見たら。そう見ることはできませんか?」
「品物ならはっきりそう解釈することもできますが、残念ながらお礼が普通のお金なので、どっちとも取れてしまうんです」
「どっちとも取れるなら、この際好意的に解釈した方が良くはないですか?」
「私はご存じの通り原稿料で生活しているくらいですから、もちろん裕福ではありません。でもどうにかこうにか、それだけで今日も過ごせます。だから自分の仕事以外のことでは、なるべく好意的に人のために働きたいと思っています。そしてその好意が相手に伝わるのが、私にとっては一番の報酬なんです。だからお金を受け取ると、自分が人のために働くという余白が――今の私にはこの余白がかなり狭いんですが――その貴重な余白が奪われてしまったような気持ちになります」
「岩崎とか三井とかいう大富豪に講演を頼んだ場合に、あとから10円のお礼を持っていきますか?それとも失礼だからというだけで、挨拶だけにとどめておきますか。私の考えでは、多分お金は持っていかないと思います」
「さあ」
「自惚れかもしれませんが、私の頭脳は三井岩崎に比べて貧しくはないとしても、一般の学生よりははるかに裕福だと思います」
「その通りです」
「もし岩崎や三井に10円のお礼を持っていくのが失礼なら、私のところへ10円のお礼を持ってくるのも失礼でしょう。それにその10円が私の生活を経済的にすごく潤すなら、また別の観点からこの問題をとらえることもできるでしょうが、実は私はそれを他に使おうと考えていたんです。――今の私の経済状況では、この10円があってもなくても、ほとんど目に見えた影響はありません」
「よく考えましょう」

原文 (会話文抽出)

「この場合私は労力を売りに行ったのではない。好意ずくで依頼に応じたのだから、向うでも好意だけで私に酬いたらよかろうと思う。もし報酬問題とする気なら、最初から御礼はいくらするが、来てくれるかどうかと相談すべきはずでしょう」
「しかしどうでしょう。その十円はあなたの労力を買ったという意味でなくって、あなたに対する感謝の意を表する一つの手段と見たら。そう見る訳には行かないのですか」
「品物なら判然そう解釈もできるのですが、不幸にも御礼が普通営業的の売買に使用する金なのですから、どっちとも取れるのです」
「どっちとも取れるなら、この際善意の方に解釈した方が好くはないでしょうか」
「私は御存じの通り原稿料で衣食しているくらいですから、無論富裕とは云えません。しかしどうかこうか、それだけで今日を過ごして行かれるのです。だから自分の職業以外の事にかけては、なるべく好意的に人のために働いてやりたいという考えを持っています。そうしてその好意が先方に通じるのが、私にとっては、何よりも尊とい報酬なのです。したがって金などを受けると、私が人のために働いてやるという余地、――今の私にはこの余地がまた極めて狭いのです。――その貴重な余地を腐蝕させられたような心持になります」
「もし岩崎とか三井とかいう大富豪に講演を頼むとした場合に、後から十円の御礼を持って行くでしょうか、あるいは失礼だからと云って、ただ挨拶だけにとどめておくでしょうか。私の考ではおそらく金銭は持って行くまいと思うのですが」
「さあ」
「己惚かは知りませんが、私の頭は三井岩崎に比べるほど富んでいないにしても、一般学生よりはずっと金持に違いないと信じています」
「そうですとも」
「もし岩崎や三井に十円の御礼を持って行く事が失礼ならば、私の所へ十円の御礼を持って来るのも失礼でしょう。それもその十円が物質上私の生活に非常な潤沢を与えるなら、またほかの意味からこの問題を眺める事もできるでしょうが、現に私はそれを他にやろうとまで思ったのだから。――私の現下の経済的生活は、この十円のために、ほとんど目に立つほどの影響を蒙らないのだから」
「よく考えて見ましょう」


青空文庫現代語化 Home リスト