GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。
青空文庫図書カード: 夏目漱石 『二百十日』
現代語化
「ここで曲がるの」
「突き当たりにお寺の石段が見えるから、門に入らずに左に曲がれって言ってたぜ」
「うどん屋のじいさんがかい」
「そうだよ」
「あのじいさんが、何を言ってるか分かったもんじゃない」
「なんで」
「なんでって、世の中に商売もいろいろあるだろうに、うどん屋になるなんて、まずそれだけで頭がおかしい」
「うどん屋だってまともな仕事だ。お金を積んで、貧乏人を虐げるのを道楽にするやつらよりずっと立派だ」
「立派かもしれないけど、どうもうどん屋は性に合わない。――でも、とうとううどんを食わされた今となっては、いくらうどん屋の主人を恨んでも後の祭りだから、まあ、我慢して、ここから曲がってやろう」
「石段は見えるけど、あれがお寺かなあ。本堂も何もないよ」
「阿蘇の火事で焼けちゃったんだろう。だから言わないことじゃない。――おい天気の様子がちょっと怪しくなってきたぜ」
「大丈夫だって、天が助けてくれるよ」
「どこが」
「どこでもあるよ。強い意志があれば、天がいくらでも助けてくれるものだ」
「どうも君は自信家だね。剛健党になるかと思うと、天祐派になる。その次は天誅組になって筑波山に立て籠もるつもりだろう」
「何豆腐屋時代から天誅組さ。――貧乏人をいじめるような――豆腐屋だって人間だ――いじめるって、何の得にもならないんだぜ、ただ道楽なんて信じられない」
「いつそんな目に遭ったんだい」
「いつでもいいさ。昔の桀紂って悪いやつとして有名だけど、20世紀はそんな桀紂ばっかりなんだぜ。しかも文明の皮を厚くかぶってるからたちの悪いこと」
「皮ばかりで中身のない方がいいくらいなものかな。やっぱり、お金がありすぎて、暇だと、そういう真似がしたくなるんだろうね。お金持ちは大概桀紂になりたがるんだろう。僕みたいな貧乏な有徳の君子と、あいつらみたいなバカはお金の使い方も全然違うんだ。困った世の中だなあ。そうだね、そういうやつらを10把1カラゲにして、阿蘇の火口から逆さまに地獄に叩き落としてしまったら」
「そのうち落としてやるよ」
原文 (会話文抽出)
「おいこれから曲がっていよいよ登るんだろう」
「ここを曲がるかね」
「何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を這入らずに左へ廻れと教えたぜ」
「饂飩屋の爺さんがか」
「そうさ」
「あの爺さんが、何を云うか分ったもんじゃない」
「なぜ」
「なぜって、世の中に商売もあろうに、饂飩屋になるなんて、第一それからが不了簡だ」
「饂飩屋だって正業だ。金を積んで、貧乏人を圧迫するのを道楽にするような人間より遥かに尊といさ」
「尊といかも知れないが、どうも饂飩屋は性に合わない。――しかし、とうとう饂飩を食わせられた今となって見ると、いくら饂飩屋の亭主を恨んでも後の祭りだから、まあ、我慢して、ここから曲がってやろう」
「石段は見えるが、あれが寺かなあ、本堂も何もないぜ」
「阿蘇の火で焼けちまったんだろう。だから云わない事じゃない。――おい天気が少々剣呑になって来たぜ」
「なに、大丈夫だ。天祐があるんだから」
「どこに」
「どこにでもあるさ。意思のある所には天祐がごろごろしているものだ」
「どうも君は自信家だ。剛健党になるかと思うと、天祐派になる。この次ぎには天誅組にでもなって筑波山へ立て籠るつもりだろう」
「なに豆腐屋時代から天誅組さ。――貧乏人をいじめるような――豆腐屋だって人間だ――いじめるって、何らの利害もないんだぜ、ただ道楽なんだから驚ろく」
「いつそんな目に逢ったんだい」
「いつでもいいさ。桀紂と云えば古来から悪人として通り者だが、二十世紀はこの桀紂で充満しているんだぜ、しかも文明の皮を厚く被ってるから小憎らしい」
「皮ばかりで中味のない方がいいくらいなものかな。やっぱり、金があり過ぎて、退屈だと、そんな真似がしたくなるんだね。馬鹿に金を持たせると大概桀紂になりたがるんだろう。僕のような有徳の君子は貧乏だし、彼らのような愚劣な輩は、人を苦しめるために金銭を使っているし、困った世の中だなあ。いっそ、どうだい、そう云う、ももんがあを十把一とからげにして、阿蘇の噴火口から真逆様に地獄の下へ落しちまったら」
「今に落としてやる」