夏目漱石 『二百十日』 「そら恵比寿が来た。この恵比寿がビールでな…

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青空文庫図書カード: 夏目漱石 『二百十日』

現代語化

「ほら、エビスが来たよ。このエビスがビールじゃないんだから面白い。さあ1杯飲むかい」
「うん。ついでにその卵を2ついただこうか」
「だって卵は僕が頼んだんだぜ」
「でも4つとも食べるつもりかい」
「明日のうどんが心配だから、このうち2つは持って行こうと思ってるんだ」
「うん。だったら、あげるよ」
「あげると言われると気が引けるから、まあいいよ。本来なら剛健党が卵なんかを食べるのは、ちょっと贅沢すぎるけど、可哀想だし――さあ食べればいい。――お姉さん、このエビスってどこで作ってるの」
「たぶん熊本でございましょう」
「ふん、熊本製のエビスか。なかなか旨いね。君はどうだ、熊本製のエビスは」
「うん。やっぱり東京製と同じみたい。――おい、お姉さん、エビスはいいけど、この卵は生だよ」
「そうですか」
「生なのに」
「そうなんです」
「なんだか話が噛み合わないな。君、半熟を頼んだんじゃないのか。君のも生か」
「半熟を頼んで半生をもらったりか。僕のを1つ割ってみよう。――おや、これは駄目だ……」
「うで卵か」
「固茹でだ。こっちはどうだ。――うん、これも固茹でだ。――お姉さん、これは、うで卵じゃないのか」
「そうです」
「そうなのか」
「そうです」
「なんだか言葉が通じない国に来たみたいだな。――向かいのお客さんのが半熟卵で、僕のは、うで卵なのかい」
「そうです」
「なぜ、そんなことをしたのだい」
「半分煮ました」
「なるほど。これは、よくできたな。ハハハハ、君、半熟の意味が分かったか」
「ハハハハ、単純なものだね」
「まるで落語みたいだな」
「間違えましたか。そちらのも煮ますか」
「いやこれでいいよ。――お姉さん、ここから、阿蘇まで何里あるかい」
「ここが阿蘇でございます」
「ここが阿蘇なら、明日6時に起きることなんてできないな。2、3日滞在して、すぐに熊本に引き返そうじゃないか」
「どうぞ、いつまでもお泊まりください」
「お姉さんも、そう言って勧めてくれるんだから、どうだろう、そうしたら」
「ここも阿蘇郡だから、阿蘇です」
「そうですか」
「じゃあ阿蘇の宮まではどれくらいあるかい」
「宮までは3里でございます」
「山の頂までは」
「宮から2里でございます」
「山の頂上はすごいんだろうね」
「そうですかね」
「あなたは登ったことあるかい」
「いいえ」
「じゃあ知らないんだね」
「いいえ、知りません」
「知らなければ、仕方ないな。せっかく話を聞こうと思ったのに」
「お山に登られますか」
「うん、早く登りたくて、たまらないんだ」
「私は登りたくなくて、たまらないんですけど」
「ホホホ、それじゃあ、あなただけ、ここに残ってください」
「うん、ここで寝転がって、あのゴウゴウという音を聞いているほうが楽なようだ。ゴウゴウと言うと、さっきより、だいぶ激しくなったみたいだな、君」
「そうだな、だいぶ、激しくなった。夜のせいだろう」
「お山が少し荒れてるようです」
「荒れると激しく鳴るのかね」
「そうです。そして、よなたがたくさん降ってくるんです」
「よなたって何だい」
「灰でございます」

原文 (会話文抽出)

「そら恵比寿が来た。この恵比寿がビールでないんだから面白い。さあ一杯飲むかい」
「うん、ついでにその玉子を二つ貰おうか」
「だって玉子は僕が誂らえたんだぜ」
「しかし四つとも食う気かい」
「あしたの饂飩が気になるから、このうち二個は携帯して行こうと思うんだ」
「うん、そんなら、よそう」
「よすとなると気の毒だから、まあ上げよう。本来なら剛健党が玉子なんぞを食うのは、ちと贅沢の沙汰だが、可哀想でもあるから、――さあ食うがいい。――姉さん、この恵比寿はどこでできるんだね」
「おおかた熊本でござりまっしょ」
「ふん、熊本製の恵比寿か、なかなか旨いや。君どうだ、熊本製の恵比寿は」
「うん。やっぱり東京製と同じようだ。――おい、姉さん、恵比寿はいいが、この玉子は生だぜ」
「ねえ」
「生だと云うのに」
「ねえ」
「何だか要領を得ないな。君、半熟を命じたんじゃないか。君のも生か」
「半熟を命じて不熟を得たりか。僕のを一つ割って見よう。――おやこれは駄目だ……」
「うで玉子か」
「全熟だ。こっちのはどうだ。――うん、これも全熟だ。――姉さん、これは、うで玉子じゃないか」
「ねえ」
「そうなのか」
「ねえ」
「なんだか言葉の通じない国へ来たようだな。――向うの御客さんのが生玉子で、おれのは、うで玉子なのかい」
「ねえ」
「なぜ、そんな事をしたのだい」
「半分煮て参じました」
「なあるほど。こりゃ、よく出来てらあ。ハハハハ、君、半熟のいわれが分ったか」
「ハハハハ単純なものだ」
「まるで落し噺し見たようだ」
「間違いましたか。そちらのも煮て参じますか」
「なにこれでいいよ。――姉さん、ここから、阿蘇まで何里あるかい」
「ここが阿蘇でござりまっす」
「ここが阿蘇なら、あした六時に起きるがものはない。もう二三日逗留して、すぐ熊本へ引き返そうじゃないか」
「どうぞ、いつまでも御逗留なさいまっせ」
「せっかく、姉さんも、ああ云って勧めるものだから、どうだろう、いっそ、そうしたら」
「ここも阿蘇だって、阿蘇郡なんだろう」
「ねえ」
「じゃ阿蘇の御宮まではどのくらいあるかい」
「御宮までは三里でござりまっす」
「山の上までは」
「御宮から二里でござりますたい」
「山の上はえらいだろうね」
「ねえ」
「御前登った事があるかい」
「いいえ」
「じゃ知らないんだね」
「いいえ、知りまっせん」
「知らなけりゃ、しようがない。せっかく話を聞こうと思ったのに」
「御山へ御登りなさいますか」
「うん、早く登りたくって、仕方がないんだ」
「僕は登りたくなくって、仕方がないんだ」
「ホホホそれじゃ、あなただけ、ここへ御逗留なさいまっせ」
「うん、ここで寝転んで、あのごうごう云う音を聞いている方が楽なようだ。ごうごうと云やあ、さっきより、だいぶ烈しくなったようだぜ、君」
「そうさ、だいぶ、強くなった。夜のせいだろう」
「御山が少し荒れておりますたい」
「荒れると烈しく鳴るのかね」
「ねえ。そうしてよながたくさんに降って参りますたい」
「よなた何だい」
「灰でござりまっす」


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