森鴎外 『高瀬舟』 「喜助さん」…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 森鴎外 『高瀬舟』

現代語化

「喜助さん」
「はい」
「いろいろ聞くなぁ、お前が今度島に送られるのは、人を殺したからだっていう話だけど。俺に詳しくその理由を話してみないか?」
「かしこまりました」
「なんてことをしたもんだ。恐ろしくて話もできないよ。後から考えると、どうしてあんなことができたのか、自分でも不思議です。夢中でやったんです。僕は小さいときに両親が疫病で死んで、弟と2人で残されました。最初は下宿に住んでる人の家の犬の子に餌を与えるみたいに町の人たちが恵んでくれるので、近所中を走り回って用事をしたりして、飢えたり凍えたりせずに育ちました。だんだん大きくなって職を探しても、できるだけ2人は離れないようにして、一緒にいて助け合って働きました。去年の秋のことでした。僕は弟と一緒に西陣の織物工場に入って、糸を引く仕事をしました。そのうち弟が病気になって働けなくなったんです。その頃僕たちは北山の掘っ立て小屋みたいなところに住んで、紙屋川の橋を渡って工場に通っていました。僕が暗くなってから食べ物などを買って帰ると、弟が待ち構えていて、僕を一人稼がせるのは悪いって言ってました。ある日いつものように何も考えずに帰ってみると、弟は布団の上にうつ伏せになっていて、周りは血だらけだったんです。僕はびっくりして、手に持ってた竹の包みやなんかをそこらへんに投げ出して、そばに行って『どうした?』って言いました。すると弟は青い顔の、両方の頬からあごにかけて血を流して顔を上げて僕を見ましたが、しゃべれません。息をするたびに、傷口からヒューヒューって音がするだけでした。僕はわけがわからなくて、『どうしたんだ、血を吐いたのか?』って言って、近づこうとすると、弟は右手を床について少し体を起こしました。左手はあごの下をしっかり押さえていますが、その指の間から黒い血の塊がはみ出しています。弟は目で僕を近づけないようにして、やっとしゃべれるようになったみたいでした。『ごめん。どうか勘弁してくれ。どうせ治らない病気だから、早く死んで少しでも兄ちゃんに楽をさせたいと思ったんだ。笛を切ったらすぐに死ねるだろうと思ったけど、息がそこから漏れるだけで死なない。もっと奥にと思って、力いっぱいぐっと押し込んだら、横にすべってしまった。刃は外れてないみたいだ。これをうまく抜いてくれたら俺は死ねると思う。しゃべるのが辛くて苦しい。どうか手を貸して抜いてくれ』って言うんです。弟が左手を開くとまたそこから息が漏れます。僕は何て言ったらいいかわからなくなって、黙って弟の首の傷口をのぞいてみますと、どうも右手で剃刀を持って横に笛を切ったけど、それでは死ねなくて、そのまま剃刀をグッと深く突き刺したみたいなんです。柄が2寸くらい傷口から出てます。僕はそれだけを見てどうしたらいいかわからなくて、弟の顔を見ました。弟は僕をじっと見つめています。僕はなんとか『待っててくれ、医者を呼んでくるから』って言いました。弟は恨めしそうな目をしていましたが、また左手で首をしっかり押さえて、『医者が何になる、ああっ苦しい、早く抜いてくれ、頼む』って言います。僕は途方に暮れたような気持ちになって、ただ弟の顔ばかり見ています。こんな時は、不思議なものですね、目と目が会話します。弟の目は『早くして、早くして』って言って、僕を恨めしそうに見ています。僕の頭の中は、車の輪みたいにぐるぐる回ってるみたいだったけど、弟の目は恐ろしい催促をやめないんです。しかもその恨めしさがだんだん険しくなってきて、とうとう敵の顔でも睨むような、憎々しい目になってしまいます。それを見てると、僕はとうとう、これは弟の言った通りにしてあげなきゃいけないなって思いました。僕は『仕方ねえ、抜いてやるよ』って言いました。すると弟の目つきがぱっと変わって、晴れやかで、嬉しそうになりました。僕は一気にやろうと思って、膝をついてグッと体ごと前に乗り出しました。弟は突き出していた右手を離して、首を抑えてた手の肘を床について横になりました。僕は剃刀の柄をしっかり握って、ぐっと引っ張りました。その時、僕の家の閉めてた玄関の戸が開いて、近所のばあさんが入って来ました。僕が留守の間、弟に薬を飲ませたりしてくれるように頼んでた人です。もうだいぶ家の中が暗くなってたから、僕にはばあさんがどれくらい見たのかわかりませんでしたけど、ばあさんはびっくりしたって顔をして、玄関を全開のままにして飛び出して行っちゃいました。僕は剃刀を抜くとき、手早く抜こう、真っ直ぐ抜こうってだけを考えてましたが、抜いた時の感覚は、今まで切れてなかったところを切ったような感じでした。刃が外側を向いてたから、外側が切れたんでしょう。僕は剃刀を持ったまま、ばあさんが入ってきてまた飛び出していくのをぼんやり見ていました。ばあさんが出て行ってから気がついて弟を見ると、弟はもう息が止まっていました。傷口からはすごい血が出てました。それから年寄りの人たちが来て、役場へ連れて行かれるまで、僕は剃刀をそばに置いて、目を半分開いたまま死んでる弟の顔を見つめていました」

原文 (会話文抽出)

「喜助さん」
「さん」
「はい」
「さん」
「色々の事を聞くやうだが、お前が今度島へ遣られるのは、人をあやめたからだと云ふ事だ。己に序にそのわけを話して聞せてくれぬか。」
「かしこまりました」
「どうも飛んだ心得違で、恐ろしい事をいたしまして、なんとも申し上げやうがございませぬ。跡で思つて見ますと、どうしてあんな事が出來たかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしましたのでございます。わたくしは小さい時に二親が時疫で亡くなりまして、弟と二人跡に殘りました。初は丁度軒下に生れた狗の子にふびんを掛けるやうに町内の人達がお惠下さいますので、近所中の走使などをいたして、飢ゑ凍えもせずに、育ちました。次第に大きくなりまして職を搜しますにも、なるたけ二人が離れないやうにいたして、一しよにゐて、助け合つて働きました。去年の秋の事でございます。わたくしは弟と一しよに、西陣の織場に這入りまして、空引と云ふことをいたすことになりました。そのうち弟が病氣で働けなくなつたのでございます。其頃わたくし共は北山の掘立小屋同樣の所に寢起をいたして、紙屋川の橋を渡つて織場へ通つてをりましたが、わたくしが暮れてから、食物などを買つて歸ると、弟は待ち受けてゐて、わたくしを一人で稼がせては濟まない/\と申してをりました。或る日いつものやうに何心なく歸つて見ますと、弟は布團の上に突つ伏してゐまして、周圍は血だらけなのでございます。わたくしはびつくりいたして、手に持つてゐた竹の皮包や何かを、そこへおつぽり出して、傍へ往つて『どうした/\』と申しました。すると弟は眞蒼な顏の、兩方の頬から腮へ掛けて血に染つたのを擧げて、わたくしを見ましたが、物を言ふことが出來ませぬ。息をいたす度に、創口でひゆう/\と云ふ音がいたすだけでございます。わたくしにはどうも樣子がわかりませんので、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と云つて、傍へ寄らうといたすと、弟は右の手を床に衝いて、少し體を起しました。左の手はしつかり腮の下の所を押へてゐますが、其指の間から黒血の固まりがはみ出してゐます。弟は目でわたくしの傍へ寄るのを留めるやうにして口を利きました。やう/\物が言へるやうになつたのでございます。『濟まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなほりさうにもない病氣だから、早く死んで少しでも兄きに樂がさせたいと思つたのだ。笛を切つたら、すぐ死ねるだらうと思つたが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く/\と思つて、力一ぱい押し込むと、横へすべつてしまつた。刃は飜れはしなかつたやうだ。これを旨く拔いてくれたら己は死ねるだらうと思つてゐる。物を言ふのがせつなくつて可けない。どうぞ手を借して拔いてくれ』と云ふのでございます。弟が左の手を弛めるとそこから又息が漏ります。わたくしはなんと云はうにも、聲が出ませんので、默つて弟の咽の創を覗いて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持つて、横に笛を切つたが、それでは死に切れなかつたので、其儘剃刀を、刳るやうに深く突つ込んだものと見えます。柄がやつと二寸ばかり創口から出てゐます。わたくしはそれだけの事を見て、どうしようと云ふ思案も附かずに、弟の顏を見ました。弟はぢつとわたくしを見詰めてゐます。わたくしはやつとの事で、『待つてゐてくれ、お醫者を呼んで來るから』と申しました。弟は怨めしさうな目附をいたしましたが、又左の手で喉をしつかり押へて、『醫者がなんになる、あゝ苦しい、早く拔いてくれ、頼む』と云ふのでございます。わたくしは途方に暮れたやうな心持になつて、只弟の顏ばかり見てをります。こんな時は、不思議なもので、目が物を言ひます。弟の目は『早くしろ、早くしろ』と云つて、さも怨めしさうにわたくしを見てゐます。わたくしの頭の中では、なんだかかう車の輪のやうな物がぐる/\廻つてゐるやうでございましたが、弟の目は恐ろしい催促を罷めません。それに其目の怨めしさうなのが段々險しくなつて來て、とう/\敵の顏をでも睨むやうな、憎々しい目になつてしまひます。それを見てゐて、わたくしはとう/\、これは弟の言つた通にして遣らなくてはならないと思ひました。わたくしは『しかたがない、拔いて遣るぞ』と申しました。すると弟の目の色がからりと變つて、晴やかに、さも嬉しさうになりました。わたくしはなんでも一と思にしなくてはと思つて膝を撞くやうにして體を前へ乘り出しました。弟は衝いてゐた右の手を放して、今まで喉を押へてゐた手の肘を床に衝いて、横になりました。わたくしは剃刀の柄をしつかり握つて、ずつと引きました。此時わたくしの内から締めて置いた表口の戸をあけて、近所の婆あさんが這入つて來ました。留守の間、弟に藥を飮ませたり何かしてくれるやうに、わたくしの頼んで置いた婆あさんなのでございます。もう大ぶ内のなかが暗くなつてゐましたから、わたくしには婆あさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが、婆あさんはあつと云つた切、表口をあけ放しにして置いて驅け出してしまひました。わたくしは剃刀を拔く時、手早く拔かう、眞直に拔かうと云ふだけの用心はいたしましたが、どうも拔いた時の手應は、今まで切れてゐなかつた所を切つたやうに思はれました。刃が外の方へ向ひてゐましたから、外の方が切れたのでございませう。わたくしは剃刀を握つた儘、婆あさんの這入つて來て又驅け出して行つたのを、ぼんやりして見てをりました。婆あさんが行つてしまつてから、氣が附いて弟を見ますと、弟はもう息が切れてをりました。創口からは大そうな血が出てをりました。それから年寄衆がお出になつて、役場へ連れて行かれますまで、わたくしは剃刀を傍に置いて、目を半分あいた儘死んでゐる弟の顏を見詰めてゐたのでございます。」


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