太宰治 『古典風』 「おい、何か悪い事をしに行こうか。も少し後…

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青空文庫図書カード: 太宰治 『古典風』

現代語化

「おい、何か悪いことをしに行こうか。もう少し後悔してみたい」
「今日はいやだ」
「おや、おや」
「まさか死ぬ気じゃないだろうね」
「いいかい?読むぞ」
「アグリッピーナはローマの王カリギュラの妹として生まれた。漆黒の頭髪と小麦色の頬と細い鼻を持った小柄な女性だった。極端に吊り上がった2つの目は、山中の湖沼のように冷たく澄んでいた。純白のドレスを着るのが好きだった。アグリッピーナには乳房がない、と宮廷に集う伊達男たちがささやき合った。美女ではなかった。けれどもその高慢で賢く、たとえば5月の青葉のように、花のない清純な姿は、当時の宮廷人の中の1、2の者に、かえって狂おしいまでの魅力を与えた。アグリッピーナは自分の幸せに気がつかないほど幸せだった。兄は誰1人非の打ち所のない賢王として、皇帝という孤独な宿命に聡明にも従おうとする激しい覚悟を持ち、せめてわがひとりの妹、アグリッピーナにこそ、真に人間らしい自由を得させたいものと、無言の庇護を怠らなかった。アグリッピーナの男性侮辱は非常に自然に行われ、しかも歴史的な見事さにまで達した。当時の唇の薄い群臣どもはこの事実をもって、アグリッピーナの類まれなる才女たる証左とし、いっそうやんやの喝采を惜しまなかった。アグリッピーナの不幸は、アグリッピーナの身体が成熟したときに始まった。彼女の男性嘲笑は、彼女の結婚によって、完膚なきまでに報いられた。婚礼の祝宴の夜、アグリッピーナは、その新郎の酔った勢いの思いつきにより、新郎が飼っている数匹の老猿をけしかけられ、宴会に並んでいる色好みの酔客たちを狂喜させた。新郎の名はブラゼンバート。もともと戦慄によってのみ生命を感じられるような男だった。アグリッピーナは、唇を噛んで、この凌辱に耐えた。いつかこの目の前の男性たちにすべて、今の夜の無礼を悔いさせてやるのだ、と心の中で密かに神に誓った。けれどもその雪辱の日はなかなか来なかった。ブラゼンバートの暴圧には際限がなかった。優しい愛撫の代わりに、歯茎から血の出るほどの殴打があった。水辺の静かな散歩の代わりに、砂埃が舞い上がる戦車の疾走があった。争いに満ちた結婚生活は、恥辱の花を咲かせた。アグリッピーナは妊娠した。ブラゼンバートはこの事実を知って大笑いした。悪意はなかった。ただおかしかったのである。アグリッピーナは復讐をほとんど諦めた。この子だけは、と1本の弱草に頼みをかけた。その子は夏の真昼に生まれた。男の子だった。肌が柔らかく、唇が赤い弱々しい男の子だった。ドミティウス(ネロの幼名)と呼ばれた。父ブラゼンバートは赤ちゃんと初めて対面し、その柔らかい片頬をぐいと掴んで、うん、変わったものだな、ヒッポの良いおもちゃになった、と言い放って、腹を抱えて笑った。ヒッポとは、ブラゼンバートお気に入りの雌ライオンの名前だった。アグリッピーナは、産後のやつれた頬に冷たい微笑を浮かべて応じた。この子はあなたの子ではありません。この子はきっとヒッポの子です。そのヒッポの子ネロが3歳の春を迎えて、ブラゼンバートは石榴を種ごと食べて、激しい腹痛に襲われ、苦しみもだえた末に死亡した。アグリッピーナはちょうど朝の入浴中だったのを、その死の確報に接し、ものも言わずに浴室から飛び出して、濡れた裸体に白い布1枚をまとって、息を引き取った婿の部屋の前を素通りして、風の如く駆け込んでいった。部屋はネロの部屋だった。3歳のネロを抱きしめて、助かった。ドミティウス、私たちは助かったのよ、と呻くようにささやき、涙と接吻でネロの花顔をぐちゃぐちゃにした。その喜びも束の間だった。実の兄、カリギュラ王の発狂である。昨日の優しい王は、朝になってローマ史屈指の暴君と呼ばれる栄誉を担った。かつて叡智に輝いていた眉間に、短剣で切り込んだような無残に深い皺が刻まれ、細く小さな2つの目には疑念の炎が青く燃え、侍女たちのそよ風ほどの笑い声にも、将校たちのややかという廊下の足音にも、容赦なく残酷な刑罰を課した。陰鬱な冷酷、吠えずして噛む1匹の病気の犬に変わっていた。ある夜、3人の兵士がアグリッピーナの枕元にひっそりと立った。1人は死刑の宣告書を持って、1人は宝石がちりばめられた毒杯を、1人は短剣の鞘を払って。『何ごとぞ。』アグリッピーナは威厳を失わず、さっと起き上がって難詰した。返事はなかった。宣告書を手渡された。さらっと目を通し、『このような死罪を言い渡されるような理由は、ありません。そこ退け、卑しい者。』返事はなかった。理由はあなたに覚えがあるでしょう、そう言ってカリギュラ王は戸口に姿を現した。今朝あなたはドミティウスを抱いて庭を散歩しながら、ドミティウス、私たちはなぜこんなに不幸なのだろうね、と恨みごとを並べていた。私はそれを聞いてしまった。待ってよ、それマジ?証拠あるの?」
「冗談じゃない。途中から変になっちゃったんだけど。これはネロの話。アレってさ、実はそんなに悪いヤツじゃなかったんだって」
「これからが面白いとこなのに。アグリパイナさん、ネロをめっちゃ溺愛してて、王様にしたくて色々やってんの。で、クロオジヤス帝の正妻になりすまして、毒殺しちゃうんだよね。ヤバすぎ」
「ネロも悪党だな」
「ちがうちがう。アグリパイナさん、ネロの彼女を邪魔して――」
「なるほど。だからネロ、母親を殺したんだ」
「いや、アグリパイナさん、ネロの恋愛を潰して――」
「まあ、よくある話だ」
「追い込まれた人間は、同族でも殺し合っちゃうんだよな」
「古いわ。もう昭和じゃあるまいし」

原文 (会話文抽出)

「おい、何か悪い事をしに行こうか。も少し後悔してみたい。」
「きょうは、いやだ。」
「おや、おや。」
「まさか、死ぬ気じゃないだろうね。」
「いいかい? 読むぞ。」
「アグリパイナは、ロオマの王者、カリギュラの妹君として生れた。漆黒の頭髪と、小麦色の頬と、痩せた鼻とを持った小柄の婦人であった。極端に吊りあがった二つの眼は、山中の湖沼の如くつめたく澄んでいた。純白のドレスを好んで着した。 アグリパイナには乳房が無い、と宮廷に集う伊達男たちが囁き合った。美女ではなかった。けれどもその高慢にして悧※、たとえば五月の青葉の如く、花無き清純のそそたる姿態は、当時のみやび男の一、二のものに、かえって狂おしい迄の魅力を与えた。 アグリパイナは、おのれの仕合せに気がつかないくらいに仕合せであった。兄は、一点非なき賢王として、カイザアたる孤高の宿命に聡くも殉ぜむとする凄烈の覚悟を有し、せめて、わがひとりの妹、アグリパイナにこそ、まこと人らしき自由を得させたいものと、無言の庇護を怠らなかった。 アグリパイナの男性侮辱は、きわめて自然に行われ、しかも、歴史的なる見事さにまで達した。時の唇薄き群臣どもは、この事実を以て、アグリパイナの類まれなる才女たる証左となし、いよいよ、やんやの喝采を惜しまなかった。 アグリパイナの不幸は、アグリパイナの身体の成熟と共にはじまった。彼女の男性嘲笑は、その結婚に依り、完膚無きまでに返報せられた。婚礼の祝宴の夜、アグリパイナは、その新郎の荒飲の果の思いつきに依り、新郎手飼の数匹の老猿をけしかけられ、饗筵につらなれる好色の酔客たちを狂喜させた。新郎の名は、ブラゼンバート。もともと、戦慄に依ってのみ生命の在りどころを知るたちの男であった。アグリパイナは、唇を噛んで、この凌辱に堪えた。いつの日か、この目前の男性たちすべてに、今宵の無礼を悔いさせてやるのだ、と心ひそかに神に誓った。けれども、その雪辱の日は、なかなかに来なかった。ブラゼンバートの暴圧には、限りがなかった。こころよい愛撫のかわりに、歯齦から血の出るほどの殴打があった。水辺のしずかな散歩のかわりに、砂塵濛々の戦車の疾駈があった。 相剋の結合は、含羞の華をひらいた。アグリパイナは、みごもった。ブラゼンバートは、この事実を知って大笑した。他意は無かった。ただ、おかしかったのである。 アグリパイナは、ほとんど復讐を断念していた。この子だけは、と弱草一すじのたのみをそこにつないだ。その子は、夏の真昼に生れた。男子であった。膚やわらかく、唇赤き弱々しげの男子であった。ドミチウス(ネロの幼名)と呼ばれた。 父君ブラゼンバートは、嬰児と初の対面を為し、そのやわらかき片頬を、むずと抓りあげ、うむ、奇態のものじゃ、ヒッポのよい玩具が出来たわ、と言い放ち、腹をゆすって笑った。ヒッポとは、ブラゼンバートお気にいりの牝獅子の名であった。アグリパイナは、産後のやつれた頬に冷い微笑を浮べて応答した。この子は、あなたのお子ではございませぬ。この子は、きっとヒッポの子です。 その、ヒッポの子、ネロが三歳の春を迎えて、ブラゼンバートは石榴を種子ごと食って、激烈の腹痛に襲われ、呻吟転輾の果死亡した。アグリパイナは折しも朝の入浴中なりしを、その死の確報に接し、ものも言わずに浴場から躍り出て、濡れた裸体に白布一枚をまとい、息ひきとった婿君の部屋のまえを素通りして、風の如く駈け込んでいった部屋は、ネロの部屋であった。三歳のネロをひしと抱きしめ、助かった、ドミチウスや、私たちは助かったのだよ、と呻くがごとく囁き、涙と接吻でネロの花顔をめちゃめちゃにした。 その喜びも束の間であった。実の兄、カリギュラ王の発狂である。昨日のやさしき王は、一朝にしてロオマ史屈指の暴君たるの栄誉を担った。かつて叡智に輝やける眉間には、短剣で切り込まれたような無慙に深い立皺がきざまれ、細く小さい二つの眼には狐疑の焔が青く燃え、侍女たちのそよ風ほどの失笑にも、将卒たちの高すぎる廊下の足音にも、許すことなく苛酷の刑罰を課した。陰鬱の冷括、吠えずして噛む一匹の病犬に化していた。一夜、三人の兵卒は、アグリパイナの枕頭にひっそり立った。一人は、死刑の宣告書を持ち、一人は、宝石ちりばめたる毒杯を、一人は短剣の鞘を払って。『何ごとぞ。』アグリパイナは、威厳を失わず、きっと起き直って難詰した。応えは無かった。 宣告書は手交せられた。 ちらと眼をくれ、『このような、死罪を言い渡されるような、理由は、ない。そこ退け、下賤の者。』応えは無かった。 理由は、おまえに覚えがある筈、そう言ってカリギュラ王は、戸口に姿を現わした。今朝おまえは、ドミチウスめを抱いて庭園を散歩しながら、ドミチウスや、私たちは、どうしてこんなに不仕合せなのだろうね、と恨みごとを並べて居った。わしは、それを聞いてしまった。隠すな。謀叛の疑い充分。ドミチウスと二人で死ぬがよい。『ドミチウスを殺しては、いけません。』アグリパイナの必死の抗議の声は、天来のそれの如く厳粛に響き渡る。『ドミチウスは、あなたのものでない。また、私のものでもございません。ドミチウスは、神の子です。ドミチウスは、美しい子です。ドミチウスは、ロオマの子です。ドミチウスを殺しては、いけません。』 疑懼のカリギュラは、くすと笑った。よし、よし。罪一等を減じてあげよう。遠島じゃ。ドミチウスを大事にするがよい。 アグリパイナは、ネロと共に艦に乗せられ、南海の一孤島に流された。 ̄調の日が続いた。ネロは、島の牛の乳を飲み、まるまると肥えふとり、猛く美しく成長した。アグリパイナは、ネロの手をひいて孤島の渚を逍遥し、水平線のかなたを指さし、ドミチウスや、ロオマは、きっと、あの辺だよ。早く、ロオマへ帰りたいね、ロオマは、この世で一ばん美しい都だよ、そう教えて、涙にむせた。ネロは無心に波とたわむれていた。 その頃、ロオマは騒動であった。蒼ざめた、カリギュラ王は、その臣下の手に依って弑せられるところとなり、彼には世嗣は無く全く孤独の身の上だったし、この後、誰が位にのぼるのか、群臣万民ふるえるほどの興奮を以て私議し合っていた。後継は、さだめられた。カリギュラの叔父、クロオジヤス。当時すでに、五十歳を越えていた。宮廷に於ける諸勢力に対し、過不足ないよう、ことさらに当らずさわらずの人物が選定せられたのである。クロオジヤスは、申し分なき好人物にして、その条件に適っている如く見えた。ロオマ一ばんの貝殻蒐集家として知られていた。黒薔薇栽培にも一家言を持っていた。王位についてみても、かれには何だか居心地のわるい思いであった。恐縮であった。むやみ矢鱈に、特赦大赦を行った。わけても孤島に流されているアグリパイナと、ネロの身の上を恐ろしきものに思い、可哀そうでならぬから、と誰にとも無き言いわけを、頬あからめて呟きつつ、その二人への赦免の書状に署名を為した。 赦免状を手にした孤島のアグリパイナは狂喜した。凱旋の女王の如く、誇らしげに胸を張って、ドミチウスや、おまえの世の中が来た、と叫び、ネロを抱いて裸足のまま屋外に駈け出し、花一輪無き荒磯を舞うが如く歩きまわり、それから立ちどまって永いことすすり泣いた。 アグリパイナはロオマへ帰って来て、もう恐ろしい人はいないぞ、とのびのびと四肢をのばして、ふと、背後に痛い視線を感じた。クロオジヤスの后メッサライナ。メッサライナは、アグリパイナの瞳をひとめ見て、これは、あぶない、と思った。烈々の、野望の焔を見てとった。メッサライナには、ブリタニカスと呼ばれる世子があった。父のクロオジヤスに似て、おっとりしていた。ネロの美貌を、盛夏の日まわりにたとえるならば、ブリタニカスは、秋のコスモスであった。ネロは、十一歳。ブリタニカスは、九歳。 奇妙な事件が起った。ネロが昼寝していたとき、誰とも知られぬやわらかき手が、ネロの鼻孔と、口とを、水に濡れた薔薇の葉二枚でもって覆い、これを窒息させ死にいたらしめむと企てた。アグリパイナは、憤怒に蒼ざめ、――」
「待て、待て。」
「ひとの忍耐にも限りがある。一体、それは何だね。」
「ネロの伝記だ。暴君ネロ。あいつだって、そんなに悪い奴でも無かったのさ。」
「これから面白くなるのだがな。アグリパイナは、こんなに、ネロを大事に、大事に育て、ネロを王位にまで押し上げてやりたく思って、あらゆる悪計を用いる。はては、クロオジヤスの后になりすまして、そうしてクロオジヤスを毒殺する。それから、もっともっと悪いことをする。おかげでネロは位についた。それから、――」
「ネロも悪い事をする。」
「いや、アグリパイナは、ネロの恋を邪魔して、――」
「うむ、なるほど。」
「ネロは、それゆえ、母をなくした。お母さん、おゆるし下さい、私は、あなたのものじゃない。母は、苦しい息の下から囁く。おまえ、お母さんが憎いかい?」
「まあ、そんなところさ。」
「追い詰められた人たちは、きっときっと血族相食をはじめる。」
「よせよ。どうも古い。大時代だ。」


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