宮本百合子 『五ヵ年計画とソヴェトの芸術』 「短く云っちまえば、総体として、この小説は…

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青空文庫図書カード: 宮本百合子 『五ヵ年計画とソヴェトの芸術』

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「結局のところ、この小説は役立つと思う」
「言葉も大衆に分かりやすい。でも、思想はバラバラだ。あの小説からまとまった印象は何も受け取れなかった。なんだかばら撒かれて、散らかってる感じ。頭の中にいろんな切れ端が残った。だけど、毎日少しずつ読んでたからだろう」
「特別な見どころや、印象的なシーンもほとんどない。小説の登場人物は、何か事件を起こして最後までやり遂げるってことがない。小説は集団生活を書いたものなのに、実際の集団生活は描かれてない。農民同士が2度も集団で殴り合ったり、共同で魚スープを煮たりしたのを見ただけだ。どんな集団耕作なのか、びっくりするよ。1人でトラクターで耕してるだけで、残りの組合員は何もせず、そばで魚スープを煮てる! 共同耕作を始めたばかりで何もすることがなかったってことなのか? 俺たちのコミューンはかれこれ9年目だけど、誰も、いつだって、暇な時間なんてものはない。シロコイエの人たちが唯一いい仕事をしたのは、堤防を作ったことだ」
「……登場人物だけど、最初はカラシュークが結構面白いと思った。これは本物になるぞと思ったんだ。でもいつの間にか小説から消えちゃった。カラシュークが富農たちを倒したってのは、本当じゃない。富農はカラシュークの味方だ。村で誰が味方かということをカラシュークの一味はちゃんと知ってる。カラシュークは自分につく者を弾圧しないんだ。それから、地方委員書記のジャールコフ。これが問題だ。作者はジャールコフを出してソ連の役人を皮肉ってるんだと思う。村の階級闘争を、パンフョーロフは眠たく、不明瞭に、ぼんやり書いてる。シュレンカは、怠け者の見本だ。うまく書いてある。他の貧農の人物は作者は説明していない。富農連中が逆に詳しく書かれてるじゃないか。アグニェフがどうやら中農らしいけど、ただ一人のシュレンカを除いて、小説には本物の中農や貧農が書かれていない」
「村のいろんなゴタゴタが、よく分からない。何が何だか示されてない。村の人たちがなぜ集団農場を始めたのか――それを作者は描いてない。つまりシロコイエ村の経済状態が分からないんだ。農民の心理は正しく観察されてる。ただ、この小説に出てくるようなバカは、実際にはいない。ばかばかしい話だ!……」
「共同耕作がどういうふうに組織されたのか――何も分からない。どう発展したのか――これも分からない。トラクター以外には何も経営的なことが説明されてない」
「この本で読者はトラクターや堤防を見る。でも次に来るものは? ありえない血みどろの殴り合いだ。それで共同耕作は終わってる。集団農場に入りたいと思ってる農民のところに行って、この小説を読んで聞かせてみな。入ることは考え直すぞ。逆に、集団農場をけなす者は言うに決まってる『へ、ろくでなしの女め! 同士討ちで終わるぞ、身分相応だ!』」
「この小説のほとんどの登場人物はつまらないトラブルで、大した役割を果たしてない。それに対して、リベディンスキーの『一週間』の登場人物はどうだ! 例えば、リザ・グラチェヴァ――なんて変わった人物なんだ? それでいて、いつも本当に生きてるようだ」
「これは、作り話だ。作者はおそらく富農を皮肉りたかったんだろうが、失敗したんだ。俺には、なぜチュフリャノフが共産党反対の組織に加わるのを拒否したのかも分からない。チュフリャノフは二心のある奴ってわけなのか――そうも思えない。富農が詩篇を読む――そんなことがあるかね! ところがパンフョーロフの小説では、読むこと、読むこと、まるで何かの書状を読むように読みふける。マルケル・ブイコフが『憲法』という言葉を使う。ズブの無学文盲の農民は、この作者が話してるような話し方はしない。マルケル・ブイコフが『憲法』という言葉を使う。ズブの無学文盲の農民は、この作者が話してるような話し方はしない。『神聖な処女の噺』は、新聞から取ったもんだね。俺たちの村ではそんな『神聖なもの』はどんなばかも信じないよ」
「貧農組合」
「シュレンカが夜中にトラクターを動かしてる。作者がそこで言ってるのは、彼の目は輝いていた! ってことだ。シュレンカの目は、狼の目かね? 作者はうまい思いつきを書きたかったんだろうが、夜には向かない」
「この『貧農組合』についてまだ言いたいことがある。これは読者が中から小銭を見つけ出さないといけないゴミ置き場だ。誰かがそれを見つけるかもしれない。でも、見つけられないかもしれない。小説はまるで舞台の最後の幕が閉まるように終わってる。作者の言葉は、重苦しい。大衆の会話は――長すぎる。聞いてると、まるで泥沼に足を突っ込んで抜け出せないような気持ちになる」
「思うに、無駄が多い」
「俺の好みがそうなのかもしれないけど、こういうことは2章で書けたと思う。でもパンフョーロフは10章にしてる。8章の間私たちは歯ぎしりしながら耐えた。集団農場の生活を書いた小説だけど、俺は、集団農場員として、この小説の中のことを本気に受け取れない。考えてみて。ブルスキーでは、去年の夏からトラクターがようやく動き出した。するとすぐに女たちが太り始めた……ありえないよ、嘘だ! 私たちはもう9年間もコミューンで暮らしてる。それでも女の中で1人も太った人はいない。むしろコミューンに新しく入ってくる人は1カ月に2、3キロも体重が減るくらいだ。これでよくわかる、ブルスキーにどんな連中が集まってきたか。怠け者だ! 天からマンナが降るのを待ってるみたいだ。ブルスキーの人たちは自分たちで言ってる。トラクターで楽をしたいって。ばかの集まりだ。共同耕作の暮らしなんて……信じられない。 自分のところの例で見てもいいよ。俺たちのところにも共有地のことで揉めたことがあった。でもあんなもんじゃなかった。確かに、揉めた。ポリトフがやってきて地方委員書記なんか関係なく、全員を怒鳴りつけた。皆がコミューンに土地を出すことに同意した。みんな熱くなって話したけど、殴り合いなんてのはなかったよ」
「五月の朝」
「貧農組合の中、今集団農場のことが出てくるのか、今出てくるのかと、そればっかり期待して聞いていた。ところがすっかり期待外れだった。ブリーノフはもう9年間コミューンで暮していて、それがどういうものかよく知っている。『でも、そういうところで暮したことのない人は「ブルスキー」を読んで聞かせてみたら、びっくりするよ。一体どういう集団農場なんだ? ばかばかしい』」
「パンフョーロフは、謎ばかりかけるけど、その答えは、ないんだ」
「シロコイエ村に、階級闘争が起きなければいけなかったのか。俺には分からない。村のほとんどが富農だ。たった一人の貧農シュレンカは怠け者だ。そこにどんな闘争があるのか」

原文 (会話文抽出)

「短く云っちまえば、総体として、この小説はためになるもんだネ」
「文句も大衆にわかりいい。だが、思想はチラバラだ。俺は、あの小説からまとまったものは何も感じなかった。何だか、こう散らばって、ブン撒かれている。頭ん中にいろんな切れぱしが残った。だが、小説を毎日少しずつ区切って読んで貰ったからじゃない。分るだろう? 特別豪勢な場面や、ハッキリした印象ってもんがちっともないんだ。小説ん中へ出て来るどの人物にしろ、何か事件を始めてそれをしまいまでやっつけるって云うことがない。小説は集団生活を書いたものだのに、実際は集団生活なんぞ、書かれてはいない。俺達は百姓が二度集団的に擲り合ったのと集団的に魚スープ(ウハー)煮たのと、そういう集団を見ただけだ。どんな集団耕作だか、びっくらするヨ。一人トラクターで耕してるぎりで残りの組合員どもは何にもしねえ、わきで魚スープを煮てる! 共同耕作の始りに何もすることがなかったって云うわけだろうか? 俺等のコンムーナはかれこれもう九年目だが、誰だって、いつだって、暇な時なんぞってものはありゃしない。たった一つシロコイエの連中はいい仕事をした。そりゃ堤防をつくったこった」
「……さて人物だが、初めのうちはカラシュークがなかなか面白いぞと思った。見てろ、と思ったね。こいつぁ本物になるぞと。ところがこいつがいつの間にか小説から消えちまった。カラシュークが富農どもをやっつけたってのは、本当じゃない。富農らはカラシュークの味方だ。村で誰が味方かということをカラシュークの一味はチャンと知っている。カラシュークは自分につく者を圧迫するこたしないんだ。それから、地方委員書記のジャールコフ。これが問題だ。思うに、作者はジャールコフを出してソヴェトの役人てものを皮肉ってるだね。村の階級闘争を、パンフョーロフは眠ったく、不明瞭に、ボンヤリ書いてる。シュレンカは、のらくら者の見本だよ。うまく書いてある。あとの貧農の人物を作者は説明していない。富農連が却ってスッカリ書かれてるでねえか。アグニェフがどうやら中農らしいが、ただ一人のシュレンカをぬきにして、小説ん中に本物の中農・貧農は書かれていない」
「村のいろんなゴタゴタが、よく分らない。何が何だか示されてねえ。何で村の者が集団農場はじめるようになったか――そいつを作者は描いてねえ。つまりシロコイエ村の経済状態てものが分らないんだ。農民魂は正しく観察されてる。ただ、この小説に出て来るような阿呆は、実際にゃいねえね。バカバカしい話だ!……」
「どういう塩梅に、共同耕作が組織されたか――何も分らん。どんな工合に発達したか――こいつも分らねえ。トラクター以外にゃ何も経営的なもんが説明されてねえんだ」
「この本で読む者はトラクターや堤防やらを見る。ところが次に来るもんはてえと? 途方もない血みどろの擲り合だ。そんで共同耕作は終っちまってる。集団農場へ入りたがってる農民のところへ行って、この小説を読んできかして見な。入ることは考えちまうぞ。反対に、集団農場をけなしつける者はほざくにきまってる『へ、碌でなしの牝の子め! お互同士でやってけつかる、柄相応だ!』」
「この小説へ出て来る人物のあらかたは何でもない引っかかりで、大した役割は演じてはいない。これに比べて、リベディンスキーの『一週間』の人物はどうかよ! 例えば、リザ・グラチェヴァ――なんと変った人物ではねえか? それでいて、いつだってほんとに生きてるようだ」
「こりゃ、拵え事だ。作者はきっと富農を皮肉ってやりたかったんだべえが、うまく行かなかったネ。俺にゃ、それに何故チュフリャノフが共産党反対の組織へ加わるのを拒絶したかも分らん。チュフリャノフは二心のある奴って訳だべか――そうも思われない。富農の奴が詩篇を読む――そんなことがあるかね! ところがパンフョーロフの小説じゃ、読むこと、読むこと、まるで何かの書付け読むように読みくさる。マルケル・ブイコフが『憲法』って言葉をつかう。ズブの無学文盲の農民は、この作者が喋らしているような喋りかたはしねえもんだ。『神聖な処女の噺』は、ありゃ新聞からとって来たもんだね。俺等の村じゃああいう、『神聖なもの』はどんな馬鹿な奴だって引きつけやしねえ」
「貧農組合」
「シュレンカが夜ふけてトラクターを動かしている。作者がそこで云ってるには、彼の眼は輝いた! とさ。シュレンカの眼は、狼の眼かね? 作者はうまい思いつきを書きたかったんだろうが、夜にゃ、向かねえ」
「この『貧農組合』についちゃまだこうも云い度いよ。こりゃ読む者が、その中から小銭を見つけ出さなけりゃならない塵塚だ、とね。誰かがそいつを見つけるかも知れん。だが、見つけられねえかもしれん。小説はまるで芝居で最後の幕がしまるように終ってる。作者の言葉は、重っ苦しい。大衆の会話は――長談議だ。聞いてると、まるで泥濘さはまって足を抜けねえような塩梅式だ」
「思うに、無駄ばっかりだ」
「俺の好みがそうなのかも知れねえが、こういうことは二章で書けたと思うね、それをパンフョーロフは十章にしている。八章の間俺達あ歯くいしばって坐っていた。集団農場の生活を書いた小説だが、俺は、集団農場員として、この小説ん中のことは本気に出来ねえ。思って見な。『ブルスキー』へはやっと前の年からトラクターが動き出した。すると忽ち女連が肥って、脂がのりはじめた……きまりきってるサ、嘘だ! 俺達はあらかた九年コンムーナで暮してる。それでも女連の中で一人だってまだ肥えた者なんぞいねえヨ。それどころかコンムーナへ新規に入って来る者なんぞは一月に二三キロも目方が減るぐれえなもんだ。これでよく分る、『ブルスキー』へどんな連中がより集まったか。懶けもんだ! 天からマンナが降るのを待ってるみてえだ。ブルスキーの連中は自分で云っている。トラクターで楽しようって。馬鹿のより合いだ。共同耕作の暮しなんて……信じられねえ。 自分のところの例で見てもよ、俺達んところにも共有地のことでごたごたがあったが、ああいうもんじゃなかった。成程、揉めた。ポリトフがやって来て地方委員会書記なんぞぬきに、皆をドナリつけた。誰も彼もコンムーナへ地面をだすことに同意した。みんな沸き立って喋ったけんど擲り合なんぞはなかったんだ」
「五月の朝」
「貧農組合の中に、今集団農場のことが出て来るか、今出て来るかと、そればっかり期待して聞いていた。ところがすっかり当がはずれた。ブリーノフはもう九年コンムーナで暮し、それがどういうものだかよく知っている。「けれども、そういうとこで暮したことのねえ者は『ブルスキー』を読んできかせて見な、ドマついちまうよ。一体どんな集団農場だね? バカと荒地だ」
「パンフョーロフは、謎ばっかかけるけれど、その終りが、ありゃしない」
「シロコイエ村に、階級闘争が起らなくちゃ成らなかったべえか。俺にゃ分らん。村のあらかたが富農だ。たった一人の貧農シュレンカは懶けもんだ。そこにどんな闘争があるかね」

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