太宰治 『陰火』 「よく似てゐるが、あなたは妹ぢやないのです…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 太宰治 『陰火』

現代語化

「よく似てるけど、妹じゃないの?」
「あなた、誰?」
「俺、家間違えたみたい。しょうがないよね。そっくりだし」
「あなたのその手、汚いね。寝てるからそう見えるだけで、喉とかはすごくきれいなのに」
「汚いことしたからだ。俺もわかってる。だから数珠とか経本で隠してるの。色合わせで数珠と経本持ってるんだよ。黒い服には青と赤がよく映えるし、俺の姿も引き立つ」
「読んでくれる?」
「うん」
「お経だよ。夫間の人間のつかの間の姿をよくよく見ると、およそ儚いのは、この世の始まりから終わりまで夢幻のように過ぎ去る一生―――恥ずかしいから読めない。別の読もう。夫人の身は、五障三従といって、男より重い罪がある。このためすべての女性は―――バカらしい」
「いい声」
「もっと続けて。僕は毎日退屈で死にそうなんだ。誰だかわからない人が訪ねてきても驚かないし好奇心もないし、何も聞かないで、こうして目を閉じてのんびり話せること、そんな男になれたことが、うれしいよ。あなたは?」
「いやよ。だって、しょうがないんだから。おとぎ話好き?」
「好きだよ」
「じゃあ蟹の話をするね。月夜の蟹が痩せてるのは、砂浜に映った自分の醜い影にビビって、夜通し眠らず、フラフラ歩き回るからなんだって。月の光が届かない深い海の、揺れる昆布の森の中で、静かに眠って、竜宮城の夢でも見てる姿こそ素敵なのに、蟹は月に影響されて、浜辺に出たがるんだ。浜辺に出るとすぐ、自分の醜い影を見つけて、びっくりしたり怖がったりする。『ここに男あり、ここに男あり』って蟹は泡を吹きながらつぶやいて、フラフラ歩くんだって。蟹の甲羅はつぶれやすい。いや、形自体が、つぶれるようにできてる。蟹の甲羅がつぶれる時は、『くらっしゅう』って音がするんだって。昔、イギリスのある大きな蟹は、生まれつき甲羅が赤くてきれいだった。この蟹の甲羅は、痛々しくもつぶれかけた。それはみんなのせいなのか?それとも蟹自身の招いた罰なのか?大蟹は、1日中白い肉がはみ出た甲羅を悲しそうに揺すって、あるカフェに這い込んだ。カフェには、たくさんの小さな蟹が群がっていて、タバコをくゆらせながら女の子の話をしてた。その中の1匹、フランス生まれの小さな蟹は、澄んだ目で大蟹の姿を見た。その小さな蟹の甲羅には、東洋的な灰色のくすんだ縞がいっぱい交差してた。大蟹は、小さな蟹の視線をまぶしそうに避けながら、そっとささやいたんだって。『お前、くらっしゅうされた蟹をいじめるもんじゃないよ』って。ああ、あの大蟹に比べたら、小さくて小さくて、見る影もない貧しい蟹が、今、北方の海から恥を忘れて出てきた。月の光にだまされたんだ。浜辺に出てみると、彼もまた驚いた。この影、この平べったくて醜い影は、本当に俺の影だろうか?俺は新しい男だ。でも、俺の影を見てくれ。もうつぶされかけてる。俺の甲羅はこんなに不格好なのか?こんなに弱々しかったのか?小さな小さな蟹は、そうつぶやきながらフラフラ歩いてた。俺には才能があったんだろうか?いやいや、あったとしても、それは変てこりんな才能だ。世渡りの才能というやつだ。お前は原稿を売り込むのに、編集者にどんな色目を使った?この手、あの手。泣き落とすなら目薬。脅すなら?いい服を着ようぜ。作品に一言も注釈を加えるな。退屈そうにこう言え。『もし、よければ』甲羅がうずく。体の中の水分が乾いたようだ。この海水の匂いだけが、俺のたった1つのとりえだったのに。潮の香りがなくなったら、ああ、俺は消えたい。もう一度海に這い戻るか?海の底の底の底に潜るか?懐かしいのは昆布の森。遊牧する魚の群。小さな蟹は、ゼイゼイ言いながら砂浜をフラフラ歩いてた。浦の小屋の陰で一休み。腐りかけた漁船の陰で一休み。この蟹や。何処の蟹。百伝ふ。角島(つのしま)の蟹。横去ふ。何処に到る。……」
「どうしたの?」
「いや」
「もったいないじゃない。これは古事記の、…………。罰があたるわよ。はばかりはどこかしら」
「部屋を出て、廊下を右に進めば杉の戸板がある。それが扉よ」
「秋になると女は冷えるものよ」

原文 (会話文抽出)

「よく似てゐるが、あなたは妹ぢやないのですね。」
「あなたは、誰ですか。」
「私はうちを間違へたやうです。仕方がありません。同じやうなものですものね。」
「あなたの手はどうしてそんなに汚いのです。かうして寢ながら見てゐると、あなたの喉や何かはひどくきれいなのに。」
「汚いことをしたからです。私だつて知つてゐます。だからかうして珠數やお經の本で隱さうとしてゐるのです。私は色の配合のために珠數とお經の本とを持つて歩いてゐるのです。黒いころもには青と朱の二色がよくうつつて、私のすがたもまさつて見えます。」
「讀みませうか。」
「ええ。」
「おふみさまです。夫人間ノ浮生ナル相ヲツラツラ觀ズルニ、オホヨソハカナキモノハ、コノ世ノ始中終マボロシノゴトクナル一期ナリ、――てれくさくて讀まれるものか。べつなのを讀みませう。夫女人ノ身ハ、五障三從トテ、オトコニマサリテカカルフカキツミノアルナリ、コノユヘニ一切ノ女人ヲバ、――馬鹿らしい。」
「いい聲だ。」
「もつとつづけなさいよ。僕は一日一日、退屈でたまらないのです。誰ともわからぬひとの訪問を驚きもしなければ好奇心も起さず、なんにも聞かないで、かうして眼をつぶつてらくらくと話し合へるといふことが、僕もそんな男になれたといふことが、うれしいのです。あなたは、どうですか。」
「いいえ。だつて、仕方がありませんもの。お伽噺がおすきですか。」
「すきです。」
「蟹の話をいたしませう、月夜の蟹の痩せてゐるのは、砂濱にうつるおのが醜い月影におびえ、終夜ねむらず、よろばひ歩くからであります。月の光のとどかない深い海の、ゆらゆら動く昆布の森のなかにおとなしく眠り、龍宮の夢でも見てゐる態度こそゆかしいのでせうけれども、蟹は月にうかされ、ただ濱邊へとあせるのです。砂濱へ出るや、たちまちおのが醜い影を見つけ、おどろき、かつはおそれるのです。ここに男あり、ここに男あり、蟹は泡をふきつつさう呟き呟きよろばひ歩くのです。蟹の甲羅はつぶれ易い。いいえ、形からして、つぶされるやうにできてゐます。蟹の甲羅のつぶれるときは、くらつしゆといふ音が聞えるさうです。むかし、いぎりすの或る大きい蟹は、生まれながらに甲羅が赤くて美しかつた。この蟹の甲羅は、いたましくもつぶされかけました。それは民衆の罪なのでせうか。またはかの大蟹のみづから招いたむくいなのでせうか。大蟹は、ひと日その白い肉のはみ出た甲羅をせつなげにゆさぶりゆさぶり、とあるカフヱへはひつたのでした。カフヱには、たくさんの小蟹がむれつどひ、煙草をくゆらしながら女の話をしてゐました。そのなかの一匹、ふらんす生れの小蟹は、澄んだ眼をして、かの大蟹のすがたをみつめました。その小蟹の甲羅には、東洋的な灰色のくすんだ縞がいつぱいに交錯してゐました。大蟹は、小蟹の視線をまぶしさうにさけつつ、こつそり囁いたといふのです。『おまへ、くらつしゆされた蟹をいぢめるものぢやないよ。』ああ、その大蟹に比較すれば、小さくて小さくて、見るかげもないまづしい蟹が、いま北方の海原から恥を忘れてうかれ出た。月の光にみせられたのです。砂濱へ出てみて、彼もまたおどろいたのでした。この影は、このひらべつたい醜い影は、ほんたうにおれの影であらうか。おれは新しい男である。しかし、おれの影を見給へ。もうはや、おしつぶされかけてゐる。おれの甲羅はこんなに不格好なのだらうか。こんなに弱弱しかつたのだらうか。小さい小さい蟹は、さう呟きつつよろばひ歩くのでした。おれには、才能があつたのであらうか。いや、いや、あつたとしても、それはをかしい才能だ。世わたりの才能といふものだ。お前は原稿を賣り込むのに、編輯者へどんな色目をつかつたか。あの手。この手。泣き落しならば目ぐすりを。おどかしの手か。よい着物を着やうよ。作品に一言も注釋を加へるな。退屈さうにかう言ひ給へ。『もし、よかつたら。』甲羅がうづく。からだの水氣が乾いたやうだ。この海水のにほひだけが、おれのたつたひとつのとりえだつたのに。潮の香がうせたなら、ああ、おれは消えもいりたい。もいちど海へはひらうか。海の底の底の底へもぐらうか。なつかしきは昆布の森。遊牧の魚の群。小蟹は、あへぎあへぎ砂濱をよろばひ歩いたのでした。浦の苫屋のかげでひとやすみ。腐りかけたいさり舟のかげでひとやすみ。この蟹や。何處の蟹。百傳ふ。角鹿の蟹。横去ふ。何處に到る。……」
「どうしたのです。」
「いいえ。」
「もつたいないのです。これは古事記の、…………。罰があたりますよ。はばかりはどこでせうかしら。」
「部屋を出て、廊下を右手へまつすぐに行きますと杉の戸板につきあたります。それが扉です。」
「秋にもなりますと女人は冷えますので。」


青空文庫現代語化 Home リスト