横光利一 『旅愁』 「しかし、そこに油断のならぬものもあるね。…

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青空文庫図書カード: 横光利一 『旅愁』

現代語化

「でも、油断できないこともあるよ」
「ねぇ、電卓が早いってのは、頭がいいってよりは、勘だからな。間違いしやすい危険もあるだろう。フランスなんて、目の前で紙出して、計算して、答え出して、お釣りくれるよ。お釣りも、間違えた時の損を少なくするために、必ず小さいお金から出すよ。日本は逆かな、それとも一緒」
「引き算は外国人は特に遅そうね」
「そう。引き算を暗算でするのは、できないんじゃないかって思うくらい遅いね。でも、それも、紙に書いて答えを出す練習をしてないからなんだよ。つまり、暗算は得意だけど、紙を使う代数はみんな得意ってことだ。言い換えると、国民の頭が、現実の世界と直接つながる算数から離れて、抽象的な代数の世界で生きてるってことなんだよ。それで、西洋と東洋の差は大きいんだ。この差を日本はどうするかってのが、これからの世界だよ。間違いない」
「東洋といえば、僕らは中国を思い浮かべるけど、外国人が東洋って言っても、中国とは限らないみたいだよ。ギリシャとか、エジプトとかも東洋に見えるらしいから、そこが僕らとかなり違うね」
「そうだ。ギリシャも東洋風に外人には見えるんだって。西洋文明の根っこであるギリシャがそう見えるってことは、僕らも考え直してみないと、わからなくなることが多いよね。ゲーテの全作品が、どこかしら東洋に傾いてるって、ヴァレリイが言ってたよ。それであんた、それが面白いんだけど、こんなに東洋が好きってのは、こんな西洋的なことがあろうかって、そう言ってたんだ。うまいね、なかなか。その書き方を真似すると、僕らが西洋が好きだってのは、これほど東洋的なことがあろうかって、そう言わなきゃいけない。どうかな。でも、これは本当だよ」
「なるほど、それはすごい言い方ですね」
「そうなんだよ。すごいよ」
「平和って、そういう言葉の力にあるんだなぁ」
「僕らはそういう気持ちを大切にして、いいタイミングで上手に言い広めることも大事なんだけど、みんな忘れちゃうんだよ。僕は近々、中国に行こうと思ってるんだ。子供の頃からずっと友達が中国に行ってて、蒋介石に気に入られてるんだけど、その人から来い来いって言われてね」
「中国に行くのって、硯を探しに行くんですか？」
「いや、そういうこともあるけど、中国は日本と違って、作家をものすごく信じてくれるところなんだよ。作家だけは、策略をしないって信じてる。そういう伝統があるんだね。他の人の言うことは、少し割引して聞くところも、作家にはそうじゃない。小谷も昔は文学青年だったから、その誠実さが残ってるのかな。そこが蒋介石の気に入ったところかもしれないね」

原文 (会話文抽出)

「しかし、そこに油断のならぬものもあるね。」
「ね君、暗算が迅いということは、頭が良いというより、勘だからな。それだけ間違いを起しやすいという危険でもあるだろう。フランスなんか、勘定はいちいちお客の前で、紙を出して、寄せ算をやってみてから、それから答えを云って、お釣をくれるね。その釣りも、間違いをやっても損を少なくするために必ず小さい銭から先に出すが、日本のは反対か、あるいは一緒だ。」
「引き算は殊に外人は遅いようだね。」
「そうだ。あれは引き算を暗算でするのは、出来ないんじゃないかと思わずほど、のろのろしてるね、しかし、それというのも、誰もいちいち紙で書いて、答えを出す練習をしつけているからだよ。つまり、暗算という算術は上手だが、それだけ紙を基本とする代数がみな上手だということだ。そういうことは云い換えてみると、国民一般の頭が、もう算術という現実の世界と直接に動く平面的なものから離れて、代数という立体的な、抽象の世界で生活をしているという証明になるんだからね。これでなかなか、西洋と東洋というものは、開きが大きいよ。この開きを日本がどうするか、というのが今後の世界だ。間違いない。」
「東洋といえば、僕らは先ず中国のことを考えるが、これで外国人が東洋といっても、何も中国とは限らないでしょう。ギリシアだって、エジプトだって彼らから見れば、東洋に見えるらしいんだから、そこが僕らと大ぶ違いますね。」
「そうだ。ギリシアも東洋風に外人には見えている。西洋文明の根本のギリシアがあんな風に見えてるんだと、僕らもこれで一寸考え直さなくちゃ、分らなくなることが多いよね。ゲーテの全作品が、全体を通じてどことなく東洋へ傾いていると、そんなにヴァレリイは云ってるよ。そしてね。それが面白いんだが、かくのごとく東洋を好きだということは、こんな西洋的なことがあろうか、と結んでいるところがあった。うまいね、なかなか。その筆法を用いると、僕らが西洋を好きだということは、これほど東洋的なことがあろうか、と、そう云わなくちゃならん。どうかね。しかし、君、これは本当のことだよ。」
「なるほど、それは素晴しい表現ですね。」
「そうだよ。実に立派だ。」
「平和というものは、そういう表現力にひそんだ力にあるなア。」
「僕らはそういう心を拾い上げて、機会あるごとに、それを巧みに云いふらさなくちゃならん務めもこれであるんだが、とんと皆は、忘れてしまうんだよ。僕は近近一度、中国へ行こうかと思っているんだ。小学時代からの友人が中国へ行っていてね、蒋介石に好かれているんだが、この男が来い来いと云って聞かないんだよ。」
「あなたの中国行きは、硯を探しに行くんですか。」
「いや、そういうこともあるけれども、しかし、これで中国という国は、そこは日本と違って、文学者を非常に信用してくれるところだよ。文学者だけは、謀略をしないと信じ切っている。そういう伝統がむかしからあるのだね。他のもののいうことは、直覚的に、少し割引きして話を聞いているところも、文学者にはそうじやない。小谷もむかしは文学青年だったものだから、多分ひとつはその誠実さがまだ残っていて、そこが蒋介石の気に入ったところかもしれないね。」

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