森鴎外 『伊沢蘭軒』 「疾是憂」…

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青空文庫図書カード: 森鴎外 『伊沢蘭軒』

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「病は憂いである」
「24日、朝の4時に出発する。1里で矢地駅。1里半で富海(戸の海ともいう)駅だ。駅の終わりが山道になる。浮野峠という。滑るところ、見晴らしの良いところは貞世の紀行に書かれている通りだ。山陽道中では一番の絶景だと思う。1里で浮野駅。1里で宮市駅。三倉屋甚兵衛の家に休憩する。佐南峠というところを通過する。山や海の景色が素晴らしい。富海山道に比べると、道は短いそうだ。金坂峠、岩淵、大とう村、末村を通って4里半で小郡駅。麻屋弥右衛門の家に泊まる。北に山があり、南に田んぼが広がっている。庭先に蓮がある。荷葉は傘のように大きく、花は直径8、9寸ほど。白い花が多く、まるで玉のようだ。この日は暑さはそれほどない。行程は約8里」
「荒磯の道よりもなお足曳の山、立花の坂は厳しい。花が萌え出す春の糸を乱す、賤しい我が庵の桑の山風よ」
「このあたりに素晴らしい景色があり、昔は詩歌にも口コミでも取り上げられていなかったが、最近江戸の人が発見して絶景であるとし、わざわざ大田南畝などに詩を作らせた。それからは地元の人も知って、あちこちに詩を依頼している。ここに挙げたところを見ると、近世にはすでに賞されていたようだ。他に一際素晴らしい場所はあるのだろうか」
「富海途中。空と海が広々として見渡せる。碧い海に小舟が浮かぶ。豊後州がかすんで見える。曲がった岸辺を私は東側に沿って通り過ぎる。先に進んだ人はもう海を挟んだ向こう側にいる。小郡駅の逆旅で、池の蓮が盛大に咲いている。花と葉がかなり大きく、都では見たことがない。主人の頼みで詩を作った。芙※清沼遍。香気帯秋寒。葉是青羅傘。花為白玉盤。飜風声策々。経雨露溥々。剰有新肥藕。採来供晩餐。」
「25日、朝の4時に出発する。山道を経ると周防と長門の国境の碑がある。2里半で山中駅だ。二又川を渡り、2里半で舟木駅。櫛屋太助の家に休憩する。櫛を売る家が多い。地元の言い伝えによると、昔は船を造るための大きなクスノキがあったそうだ。神功皇后が三韓を征伐した時、軍艦48艘をこの1本の木で作らせた。それが舟木という地名の由来だ。その木の枝が伸びていた所を涼木といい(舟木から4里)、根っこが倒れていた所を木の末という(舟木から6里)。この近辺から出る石炭は昔のクスノキの破片なのだろう。木の末は今は清末と間違われているそうだ。舟木川を渡り、くしめ坂を越えて1里半で浅市駅。福田から蓮台までの間に美しい田んぼが続く。朝野弥太郎の千町田という。1里28町で吉田駅。山城屋重兵衛の家に泊まる。この日は暑さはそれほどでもない。行程は約8里」
「26日、朝の4時に出発する。豊浦を通過する(豊浦は長府に神功皇后の廟があるので、それにちなんで名付けたそうだ)。海辺の松原を過ぎると1里で卯月駅だ。松の小山を通ると海上に干珠満珠島が見える。1里半で長府。松屋養助の家に休憩する。蓮藕を食べさせてくれる。味がとても良い。しかし関東のものと比べると柔らかい」
「神功皇后廟がある。かなり壮麗だ。左に武内宿禰を祀り、右に甲良玉垂神を祀っている。小さな祠がたくさんある。西を向いて海を見下ろすように建っている。側に大木があり、3人が抱え切れないほどの太さだ。皇后が征韓した時に自ら植えて、『もし凱旋できたら青々と生い茂れ、できなければ枯れ果てよ』と言ったそうだ。地元の人によると、その松だそうだ。貞世の説とは違う。舞台もある。(私が子どもの頃、大工の金次という人が、長府の殿様の江戸の屋敷を修理した時に、長府の2の宮の舞台は波の形のように美しいと言っていたのを覚えている。今、目の当たりに見ることができた。)この宮は長府の2の宮で、1の宮はここから1里北にある住吉の神を祀っているそうだ。大内義隆が造営した古い宮だと伝わっている。竜宮城から奉納された鐘があるそうだ。また神功寺(真言宗)という寺が、2の宮の鳥居のそばにある。これも義隆が創立したが、去年の火事で今は小さな寺になっている。前田という山崖の海辺を通過する。松の木が万単位で連なっており、雑木はない。巻末に絵を載せておく。壇の浦に着く。豊前の山々が目の前にあり、とても近くに見える。漁師の家が千軒もあり、道は狭い。阿弥陀寺に参拝する。寺の僧侶が案内してくれた。安徳帝の陵の上に廟を建てて、帝の木像を安置してある。10年前までは素朴だったが、近年彩色が施されたそうだ。左右の障子に二位女公内侍以下平家の武将の像が描かれている。古法眼元信の筆跡だ。また廟の廂壁に、平氏の西敗の図が金紙で描かれている。土佐光信の筆跡だ。山の奥に入ると水平家の塔がある。この寺は昔、大内義隆が造ったそうだ。しかし近年修補された。寺から出て亀山八幡に参拝する。小さな丘で、海に面しており、涼風が吹いているようだ。地元の言い伝えによると、聖武帝の貞観元年に宇佐から苗木を移植して祀ったそうだ。これも大内義隆が造営したそうだ。舞台の上から眺めると、小倉の内裏から長府の海までを一望できる。ついに2里下って関の川崎屋久助の家に泊まる。地勢は貞世の紀行に書かれている通りだ。大阪からここまでで最もにぎわった場所といえば尾道と大坂だが、赤馬関はその何万倍も勝っているだろう。この日は暑さはそれほどない。行程は約5里」
「貞世の説とは違う」
「壇の浦という名前は、皇后が国をお治めになった時に、祈願のために壇を立てさせられたことに由来するとか。壇があった当時の石が、お社の前の道端にロープで囲われている。このお社はあの豊浦の都の大内殿の跡だとか」
「潮の満ち引きの道ばかり」

原文 (会話文抽出)

「疾是憂」
「廿四日卯時発。一里矢地駅。一里半富海(一名戸の海)駅なり。駅尽山路にかかる。浮野嶢といふ。すべる所、望む所、貞世紀行尽せり。山陽道中第一の勝景と覚ゆ。一里浮野駅。一里宮市駅。三倉屋甚兵衛の家に休す。佐南嶢といふ所をすぐ。山海園村の勝尤よし。富海山道に比するに路短しとす。金坂峠岩淵大とう村末村をへて四里半小郡駅。麻屋弥右衛門の家に宿す。居北に山を望南田畝平遠なり。庭前腕あり。荷葉傘のごとく花は径八九寸許。白花多して玉のごとし。此日暑甚しからず。行程八里許。」
「あら磯のみちよりもなほ足曳のやま立花の坂ぞくるしき。花すゝきますほの糸をみだすかな賤がかふこの桑の山風。」
「此あたりに佳境ありてむかしより詩歌にも人口にもあらはれざりしを、近比江戸人見出して絶景なりとし、はるかに大田南畝などに詩をつくらしむ。それより土人もしりて詩を諸方に乞ふ。此に引ところを見れば近世すでに賞せられしと見えたり。あるひは別に一嶺の佳処ありや。」
「富海途中。天容海色望悠々。浮碧一桁豊後州。曲岸吾過東畔去。前人已在水西頭。小郡駅逆旅、池蓮盛開、花葉頗大、都下所未見、応主人需賦。芙※清沼遍。香気帯秋寒。葉是青羅傘。花為白玉盤。飜風声策々。経雨露溥々。剰有新肥藕。採来供晩餐。」
「廿五日卯時発す。山路を経るに周防長門国界の碑あり。二里半山中駅なり。二又川を渡り二里半舟木駅。櫛屋太助の家に休す。売櫛家多し。土人説に上古栽に大なる樟木あり。神功皇后の三韓を征する時艨艟四十八艘を一木にて造れり。因て船木と名く。其枝の延し所を涼木といひ(船木より四里)木末の倒し所を木の末といふ。(船木より六里。)此近地より出る石炭は古樟の木片なるべし。木の末今は清末とあやまるといふ。船木川を渡り、くしめ坂を越え一里半浅市駅。福田より蓮台にいたる間美田長し。朝野弥太郎の千町田といふ。一里廿八町吉田駅。山城屋重兵衛の家に宿。此日暑不甚。行程八里許。」
「廿六日卯時発す。豊浦を経(豊浦は長府に神功皇后の廟ある故蓋名くる也)海辺の松原をすぎ一里卯月駅なり。榎松原をすぐれば海上に干珠満珠島見ゆ。一里半長府。松屋養助の家に休す。蓮藕を食せしむ。味尤妙なり。しかれども関東の柔滑と自異なり。神功皇后廟あり。頗荘麗なり。左に武内宿禰を祀り右に甲良玉垂神を祀る。小祠甚多し。西に面し海を望て建つ。側に大樹松。囲三人抱余なり。皇后征韓の時手栽て、もし凱陣ならば蒼栄すべし、しからずんば枯亡せよといへり。その松なりと土人の説なり。貞世の説と異なり。舞台もあり。(余童子のとき匠人金次といふもの長府侯江戸の邸第補修のとき長府二の宮舞台のはふのごとくなれと好のよし語れり。今目のあたり見ることを得たり。)此宮は長府の二の宮にて一の宮は此より一里北に住吉の神をまつると也。大内義隆造作の古宮なりといへり。竜宮より奉る鐘ありといへり。又神功寺(真言宗)といふ寺二の宮の鳥居の側にあり。是亦義隆創立なりしが旧年火ありて今は一小寺なり。前田といへる山崖の海浜をすぐ。松樹万株連りて雑樹なし。図後に附す。壇の浦に至る。豊前の山々一眼にありて甚近がごとし。漁家千戸道路狭し。阿弥陀寺に詣る。寺僧先導して観しむ。安徳帝の陵上に廟を造て帝の木像を立。十年已前までは素質なるを近年彩色を加ふといふ。左右の障子に二位女公内侍より以下平戚の像を画く。古法眼元信の筆蹟なり。又廟廡金紙壁に平氏西敗の図あり。土佐光信の筆蹟なり。後山に入水平戚の塔あり。此寺古昔大内義隆の所造なり。しかるを近年修補せり。寺を出て亀山八幡に詣る。一小岡にして海に臨涼風灑がごとし。土人の説に聖武帝の貞観元年に宇佐より栽に移し祀といへり。是亦大内義隆の所造なり。舞台上より望ときは小倉内裏より長府の洋面に至まで一矚の中にあり。遂に二里下の関川崎屋久助の家に宿。地形は貞世の紀行尽せり。大坂より已来尾の道大輻湊の地なれども赤馬関は勝ること万々ならん。此日暑甚しからず。行程五里許。」
「貞世の説と異なり」
「壇のうらといふ事は皇后のひとの国うち給ひし御とき祈のために壇をたてさせ給ひたりけるよりかく名けけるとかや申也。其時の壇の石にて侍るとて御社の前のみちの辺にしめ引まはしたる石あり。此御社はあなと豊浦の都の大内の跡にて侍とかや。」
「潮の満干の道ばかり」

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