芥川龍之介 『運』 「それが、三七日の間、お籠りをして、今日が…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 芥川龍之介 『運』

現代語化

「それが、37日間、お籠りをして、今日が満願という夜に、ふとある夢を見ました。何でも、同じお堂に参っていた連中に、背の高い坊主が1人いて、その坊主が何かお経のようなものを、しつこく唱えていたそうです。たぶんそれが、気になってしまったのでしょう。うとうと眠気がさしてきても、その声ばかりは、どうしても耳から離れません。まるで、縁の下でミミズでも鳴いているような気持ちで――すると、その声が、いつの間にか人間の言葉になって、『ここから帰る道で、あなたに話しかける男がいる。その男の言うことを聞くがいい』と、このように聞こえたのだそうです。「はっと思って、目が覚めると、坊主はやはりお経を唱えていました。でも、何を言っているのか、いくら耳を澄ましても、わかりません。その時、何気なく、ふと向こうを見ると、常夜灯のぼんやりした明かりで、観音様の御顔が見えました。普段拝ませてもらっている、厳粛で美しい御顔ですけど、それを見ると、不思議にもまた耳元で、『その男の言うことを聞くがいい』と、誰かが言うような気がしたそうです。それで、娘はそれを観音様の御告げだと、ひたすら思い込んでしまったようです」
「はてね」
「さて、夜が更けてから、お寺を出て、だらだらと下りの坂道を、五条の方に進もうとすると、案の定後ろから、男が1人抱きついてきました。ちょうど春の暖かい夜でしたが、生憎と暗くて、相手の男の顔も見えないし、着ている物などは、なおさらわかりません。ただ、ふりほどこうとする拍子に、手が向うの口髭に触りました。いやはや、とんでもない時に、満願の日が当たったものです。「そのうえ、相手は、名前を聞かれても、名前を言いません。住んでいるところを聞かれても、住んでいるところを言いません。ただ、言うことを聞けと言うばかりで、坂の下の道を北へ北へ、抱きすくめたまま、引きずるようにして、連れて行きます。泣こうにも、叫ぼうにも、まったく人通りがない時間帯なので、どうすることもできません」
「ははあ、それで」
「それで、とうとう八坂寺の塔の中に、連れ込まれて、その晩はそこですごしたそうです。――いや、その辺りのことは、何も年寄の私が、わざわざ申し上げるまでもないでしょう」

原文 (会話文抽出)

「それが、三七日の間、お籠りをして、今日が満願と云う夜に、ふと夢を見ました。何でも、同じ御堂に詣っていた連中の中に、背むしの坊主が一人いて、そいつが何か陀羅尼のようなものを、くどくど誦していたそうでございます。大方それが、気になったせいでございましょう。うとうと眠気がさして来ても、その声ばかりは、どうしても耳をはなれませぬ。とんと、縁の下で蚯蚓でも鳴いているような心もちで――すると、その声が、いつの間にやら人間の語になって、『ここから帰る路で、そなたに云いよる男がある。その男の云う事を聞くがよい。』と、こう聞えると申すのでございますな。「はっと思って、眼がさめると、坊主はやっぱり陀羅尼三昧でございます。が、何と云っているのだか、いくら耳を澄ましても、わかりませぬ。その時、何気なく、ひょいと向うを見ると、常夜燈のぼんやりした明りで、観音様の御顔が見えました。日頃拝みなれた、端厳微妙の御顔でございますが、それを見ると、不思議にもまた耳もとで、『その男の云う事を聞くがよい。』と、誰だか云うような気がしたそうでございます。そこで、娘はそれを観音様の御告だと、一図に思いこんでしまいましたげな。」
「はてね。」
「さて、夜がふけてから、御寺を出て、だらだら下りの坂路を、五条へくだろうとしますと、案の定後から、男が一人抱きつきました。丁度、春さきの暖い晩でございましたが、生憎の暗で、相手の男の顔も見えなければ、着ている物などは、猶の事わかりませぬ。ただ、ふり離そうとする拍子に、手が向うの口髭にさわりました。いやはや、とんだ時が、満願の夜に当ったものでございます。「その上、相手は、名を訊かれても、名を申しませぬ。所を訊かれても、所を申しませぬ。ただ、云う事を聞けと云うばかりで、坂下の路を北へ北へ、抱きすくめたまま、引きずるようにして、つれて行きます。泣こうにも、喚こうにも、まるで人通りのない時分なのだから、仕方がございませぬ。」
「ははあ、それから。」
「それから、とうとう八坂寺の塔の中へ、つれこまれて、その晩はそこですごしたそうでございます。――いや、その辺の事なら、何も年よりの手前などが、わざわざ申し上げるまでもございますまい。」


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