芥川龍之介 『俊寛』 「そこが凡夫の浅ましさじゃ。ちょうどあの頃…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 芥川龍之介 『俊寛』

現代語化

「それが凡人の浅はかさだよ。あの頃あの館には、鶴の前って女がいたんだ。これがとんでもない魔物で、俺を離さないんだよ。俺の一生の不運は、全部あの女が原因と言ってもいい。妻に横面を殴られたのも、鹿ヶ谷の山荘を建てたのも、最終的にこの島に流されたのも、――でも有王、喜べよ。俺は鶴の前には夢中になったけど、謀反人にならなかった。女に惚れるのは、昔の聖者にも珍しくないことだ。偉大な術を使う魔道の女には、阿難尊者でさえ惑わされた。竜樹菩薩も修行前の時には、王宮の美女を盗み出すために、身を隠す術を身につけてたんだって。でも謀反を起こした聖者は、インド中国日本どこを見ても、一人もいない。それはそりゃそうだよ。女に惚れるのは、人間の欲をむき出しにするだけのことだ。けど謀反を企てるには、貪欲、怒り、愚かさの三つの毒を身につけてなきゃならない。聖者は欲望から解放されても、三つの毒の影響は受けないんだ。だから俺の知恵の光は、欲望のせいで曇ったかもしれないけど、消えてしまったわけじゃないってことだよ。――まあそれはともかく、俺は島に来た当初、毎日いやな思いをしてたよ」
「それはさぞかし大変でしたでしょう。ご飯もちろん、着るものも足りなかったでしょうから」
「いや、衣服は春と秋に2回、肥前の鹿瀬の荘から少将のところに送られてきてたんだ。鹿瀬の荘は少将の舅、平教盛の領地だ。それに俺も一年もたつと、島の風土にも慣れてしまった。でも、いやな思いを忘れるには、一緒に流された相手が悪かった。丹波の成経なんて、寝てなければ居眠りばっかりしてた」
「成経様は若いこともあるし、お父上の不運を思えば、落ち込むのも無理はないと思います」
「いや、少将は俺と同じで、天下がどうなってもどうでもいい男だ。あの男は琵琶でも弾いたり、桜でも眺めたり、女に恋歌でも詠んでたりすれば、それが極楽だって思ってる。だから俺に会えば、謀反人の父のことばっかり恨んでた」
「でも康頼様は僧都のあなたと仲が良かったと聞きましたけど」
「それがまたやっかいなんだよ。康頼は願いさえかければ、天神地神や仏菩薩がみんな自分の言う通りに利益をくれると思ってるんだ。つまり康頼の考えでは、神様も商人と同じなんだよ。ただ神様は商人みたいに、金銭で利益を売らない。だから祭文を読むんだ。お香を捧げるんだ。この近くの山には、立派な松の木がたくさんあったけど、全部康頼に切られてしまった。なんで切るのかと思ったら、千本の卒塔婆を作ったんだって。それで一つ一つに歌を書いて、海に投げ込んでるんだ。俺は康頼ほど現金な男は見たことがない」
「それでもバカじゃないですよ。都ではその卒塔婆が、熊野にも一本、厳島にも一本、流れ着いたとか言われてますよ」
「千本の中に一本や二本、日本の陸地にたどり着くのも不思議じゃない。本当に神仏の加護を信じてるなら、一本だけ流せばいいじゃない。しかも康頼はありがたそうに、千本の卒塔婆を流すときも、ずっと風向きを気にしてたよ。あるとき俺が、康頼が海に卒塔婆を流すときに、『南無頂礼、熊野三所の権現。特に日吉山王、王子の眷属。総じては上は梵天帝釈、下は堅牢地神。特に海内外の竜神八部。ご加護のまなざしを垂れ給え』って唱えたから、そのあとに『並びに西風大明神、黒潮権現もお守りください。謹んで拝んで再拝いたします』って付け足してやった」
「ひどい冗談を言いますね」
「すると康頼は怒ったんだ。あんなに大激怒するようじゃ、この世でのご利益はどうかわからないけど、来世での救いは難しいだろうね。――でもそのうち困ったことに、少将もいつのまにか康頼と一緒に神様を拝み始めたんだ。それも熊野とか王子様とか、由緒正しい神様じゃない。この島の火山には、鎮護のために岩殿っていう祠があるんだ。その岩殿に詣でてたんだよ。――火山って言えば思い出したけど、お前はまだ火山を見たことがないだろ?」
「はい、さっき榕樹の枝越しに、薄赤い煙が上ってる禿げた山を見ましただけなんです」
「じゃあ明日でも俺といっしょに、山頂まで登ってみよう。山頂まで行けばこの島だけじゃなくて、海の景色も丸見えだよ。岩殿の祠も途中にあるし、――その岩殿に詣でるのに、康頼は俺にも行けって言ったけど、俺は簡単には行かないよ」
「都では僧都のあなたが一人、そういう神詣りもしないで残されたと申されてますよ」
「いや、それもそうだと思う」
「もし岩殿に霊験があれば、俊寛さん一人残したまま、他の二人の都帰りを取り持ってくれるくらい簡単なことでしょう。さっき言った成経様の奥さんは覚えてますか? あの方も岩殿に、成経様が島を去らないように、毎日毎晩詣でていたそうです。でもその願いは少しも通じなかった。ということは岩殿の神様は、悪魔よりもよっぽど強大な横道者ということですか。悪魔には仏教の開祖のお出ましのときから、あらゆる悪事を働くって戒律があるそうです。もし岩殿の神様の代わりに、悪魔があの祠にいたら、成経様は都に帰る途中、船から落ちるか、熱病になるか、とにかく死んだはずですよ。それが成経様もあの奥さんも、同時に破滅させないのが唯一の手段だったんです。でも、岩殿は人間みたいに、良いことばかりも悪いことばかりもしないみたいです。もっともそれは岩殿に限ったことじゃない。奥州名取郡笠島の道祖は、都の加茂河原の西、一条の北辺に住んでる出雲路の道祖の娘さんなんです。でも、この神様は彼女のお父さんが、まだ婿さんを探しているうちから、若い都の商人といっしょになって奥州に行っちゃったんです。そうなったら私たちも一緒じゃないか? あの実方の中将は、この神様の前を通るときに、馬から降りてお辞儀もしなかったばかりに、とうとう蹴り殺されてしまったんです。こんな人間に近い神様は、世俗の煩悩から離れてないから、何をしでかすか油断できません。この例からもわかるように、神様っていうのは人間の領域から抜け出さない限り、崇める価値はないんです。――まあ、それはどうでもいい話だけど。康頼と成経は熱心に、岩殿詣でを続けるようになりました。しかも岩殿を熊野になぞらえて、あの入り江は和歌浦、この坂は蕪坂って、あれこれ名前をつけてるんです。まるで子どもたちが鹿狩りごっこや犬追いかけごっこをするようなもんですよ。ただ音無の滝だけは本物よりもずっと大きかった」
「それでも都の噂では、ご利益があったとか言ってますけど」
「そのご利益の一つはこうです。願いを込めた当日のこと、岩殿の前で二人が供物をお供えしていると、山の風が木々を揺らした勢いで、椿の葉が二枚落ちてきたんです。その椿の葉には二枚とも、虫にかじられた跡が残っていました。それが一つには『帰雁』って書いてあって、もう一つには『二』って書いてあったんだそうです。合わせて読むと『帰雁二』になる、――こんなことで喜ぶなんて、康頼は翌日は得意げに、その葉っぱを俺にも見せてきました。たしかに『二』とは読めます。でも『帰雁』は無理やりすぎます。俺はあまりに可笑しくなったから、次の日山に行った帰りに、椿の葉を何枚も拾ってきてやりました。その葉の虫食いを続けて読むと、『帰雁二』どころの話じゃありません。『明日帰洛』ってのもある。『清盛横死』ってのもある。『康頼往生』ってのもある。俺は康頼もさぞかし喜ぶだろうと思ってましたが、――」
「それはお怒りになったでしょう」
「康頼は怒るのには天才です。踊りは都中でも並ぶものがないけど、腹を立てるのはさらにうまいです。あの男が謀反に加わったのも、怒りにまかせたに違いありません。その怒りの源はといえば、やはり慢心に違いない。平家は清盛以下みんな悪人、こちらは大納言以下みんな善人、――康頼はこう思っています。その思い込みが失敗のもとです。それにさっきも言った通り、私たち人間はみんな、清盛とまったく同じなんです。康頼の腹を立てるのがいいのか、成経のため息をするのがいいのか、どちらがいいのか俺にもわかりません」
「成経様だけは奥さんもいましたし、気が紛れることもあったでしょうに」
「いや、しょっちゅう青い顔をしては、つまらない愚痴ばかり言っていました。たとえば

原文 (会話文抽出)

「そこが凡夫の浅ましさじゃ。ちょうどあの頃あの屋形には、鶴の前と云う上童があった。これがいかなる天魔の化身か、おれを捉えて離さぬのじゃ。おれの一生の不仕合わせは、皆あの女がいたばかりに、降って湧いたと云うても好い。女房に横面を打たれたのも、鹿ヶ谷の山荘を仮したのも、しまいにこの島へ流されたのも、――しかし有王、喜んでくれい。おれは鶴の前に夢中になっても、謀叛の宗人にはならなかった。女人に愛楽を生じたためしは、古今の聖者にも稀ではない。大幻術の摩登伽女には、阿難尊者さえ迷わせられた。竜樹菩薩も在俗の時には、王宮の美人を偸むために、隠形の術を修せられたそうじゃ。しかし謀叛人になった聖者は、天竺震旦本朝を問わず、ただの一人もあった事は聞かぬ。これは聞かぬのも不思議はない。女人に愛楽を生ずるのは、五根の欲を放つだけの事じゃ。が、謀叛を企てるには、貪嗔癡の三毒を具えねばならぬ。聖者は五欲を放たれても、三毒の害は受けられぬのじゃ。して見ればおれの知慧の光も、五欲のために曇ったと云え、消えはしなかったと云わねばなるまい。――が、それはともかくも、おれはこの島へ渡った当座、毎日忌々しい思いをしていた。」
「それはさぞかし御難儀だったでしょう。御食事は勿論、御召し物さえ、御不自由勝ちに違いありませんから。」
「いや、衣食は春秋二度ずつ、肥前の国鹿瀬の荘から、少将のもとへ送って来た。鹿瀬の荘は少将の舅、平の教盛の所領の地じゃ。その上おれは一年ほどたつと、この島の風土にも慣れてしまった。が、忌々しさを忘れるには、一しょに流された相手が悪い。丹波の少将成経などは、ふさいでいなければ居睡りをしていた。」
「成経様は御年若でもあり、父君の御不運を御思いになっては、御歎きなさるのもごもっともです。」
「何、少将はおれと同様、天下はどうなってもかまわぬ男じゃ。あの男は琵琶でも掻き鳴らしたり、桜の花でも眺めたり、上臈に恋歌でもつけていれば、それが極楽じゃと思うている。じゃからおれに会いさえすれば、謀叛人の父ばかり怨んでいた。」
「しかし康頼様は僧都の御房と、御親しいように伺いましたが。」
「ところがこれが難物なのじゃ。康頼は何でも願さえかければ、天神地神諸仏菩薩、ことごとくあの男の云うなり次第に、利益を垂れると思うている。つまり康頼の考えでは、神仏も商人と同じなのじゃ。ただ神仏は商人のように、金銭では冥護を御売りにならぬ。じゃから祭文を読む。香火を供える。この後の山なぞには、姿の好い松が沢山あったが、皆康頼に伐られてしもうた。伐って何にするかと思えば、千本の卒塔婆を拵えた上、一々それに歌を書いては、海の中へ抛りこむのじゃ。おれはまだ康頼くらい、現金な男は見た事がない。」
「それでも莫迦にはなりません。都の噂ではその卒塔婆が、熊野にも一本、厳島にも一本、流れ寄ったとか申していました。」
「千本の中には一本や二本、日本の土地へも着きそうなものじゃ。ほんとうに冥護を信ずるならば、たった一本流すが好い。その上康頼は難有そうに、千本の卒塔婆を流す時でも、始終風向きを考えていたぞ。いつかおれはあの男が、海へ卒塔婆を流す時に、帰命頂礼熊野三所の権現、分けては日吉山王、王子の眷属、総じては上は梵天帝釈、下は堅牢地神、殊には内海外海竜神八部、応護の眦を垂れさせ給えと唱えたから、その跡へ並びに西風大明神、黒潮権現も守らせ給え、謹上再拝とつけてやった。」
「悪い御冗談をなさいます。」
「すると康頼は怒ったぞ。ああ云う大嗔恚を起すようでは、現世利益はともかくも、後生往生は覚束ないものじゃ。――が、その内に困まった事には、少将もいつか康頼と一しょに、神信心を始めたではないか? それも熊野とか王子とか、由緒のある神を拝むのではない。この島の火山には鎮護のためか、岩殿と云う祠がある。その岩殿へ詣でるのじゃ。――火山と云えば思い出したが、お前はまだ火山を見た事はあるまい?」
「はい、たださっき榕樹の梢に、薄赤い煙のたなびいた、禿げ山の姿を眺めただけです。」
「では明日でもおれと一しょに、頂へ登って見るが好い。頂へ行けばこの島ばかりか、大海の景色は手にとるようじゃ。岩殿の祠も途中にある、――その岩殿へ詣でるのに、康頼はおれにも行けと云うたが、おれは容易には行こうとは云わぬ。」
「都では僧都の御房一人、そう云う神詣でもなさらないために、御残されになったと申して居ります。」
「いや、それはそうかも知れぬ。」
「もし岩殿に霊があれば、俊寛一人を残したまま、二人の都返りを取り持つくらいは、何とも思わぬ禍津神じゃ。お前はさっきおれが教えた、少将の女房を覚えているか? あの女もやはり岩殿へ、少将がこの島を去らぬように、毎日毎夜詣でたものじゃ。所がその願は少しも通らぬ。すると岩殿と云う神は、天魔にも増した横道者じゃ。天魔には世尊御出世の時から、諸悪を行うと云う戒行がある。もし岩殿の神の代りに、天魔があの祠にいるとすれば、少将は都へ帰る途中、船から落ちるか、熱病になるか、とにかくに死んだのに相違ない。これが少将もあの女も、同時に破滅させる唯一の途じゃ。が、岩殿は人間のように、諸善ばかりも行わねば、諸悪ばかりも行わぬらしい。もっともこれは岩殿には限らぬ。奥州名取郡笠島の道祖は、都の加茂河原の西、一条の北の辺に住ませられる、出雲路の道祖の御娘じゃ。が、この神は父の神が、まだ聟の神も探されぬ内に、若い都の商人と妹背の契を結んだ上、さっさと奥へ落ちて来られた。こうなっては凡夫も同じではないか? あの実方の中将は、この神の前を通られる時、下馬も拝もされなかったばかりに、とうとう蹴殺されておしまいなすった。こう云う人間に近い神は、五塵を離れていぬのじゃから、何を仕出かすか油断はならぬ。このためしでもわかる通り、一体神と云うものは、人間離れをせぬ限り、崇めろと云えた義理ではない。――が、そんな事は話の枝葉じゃ。康頼と少将とは一心に、岩殿詣でを続け出した。それも岩殿を熊野になぞらえ、あの浦は和歌浦、この坂は蕪坂なぞと、一々名をつけてやるのじゃから、まず童たちが鹿狩と云っては、小犬を追いまわすのも同じ事じゃ。ただ音無の滝だけは本物よりもずっと大きかった。」
「それでも都の噂では、奇瑞があったとか申していますが。」
「その奇瑞の一つはこうじゃ。結願の当日岩殿の前に、二人が法施を手向けていると、山風が木々を煽った拍子に、椿の葉が二枚こぼれて来た。その椿の葉には二枚とも、虫の食った跡が残っている。それが一つには帰雁とあり、一つには二とあったそうじゃ。合せて読めば帰雁二となる、――こんな事が嬉しいのか、康頼は翌日得々と、おれにもその葉を見せなぞした。成程二とは読めぬでもない。が、帰雁はいかにも無理じゃ。おれは余り可笑しかったから、次の日山へ行った帰りに、椿の葉を何枚も拾って来てやった。その葉の虫食いを続けて読めば、帰雁二どころの騒ぎではない。『明日帰洛』と云うのもある。『清盛横死』と云うのもある。『康頼往生』と云うのもある。おれはさぞかし康頼も、喜ぶじゃろうと思うたが、――」
「それは御立腹なすったでしょう。」
「康頼は怒るのに妙を得ている。舞も洛中に並びないが、腹を立てるのは一段と巧者じゃ。あの男は謀叛なぞに加わったのも、嗔恚に牽かれたのに相違ない。その嗔恚の源はと云えば、やはり増長慢のなせる業じゃ。平家は高平太以下皆悪人、こちらは大納言以下皆善人、――康頼はこう思うている。そのうぬ惚れがためにならぬ。またさっきも云うた通り、我々凡夫は誰も彼も、皆高平太と同様なのじゃ。が、康頼の腹を立てるのが好いか、少将のため息をするのが好いか、どちらが好いかはおれにもわからぬ。」
「成経様御一人だけは、御妻子もあったそうですから、御紛れになる事もありましたろうに。」
「ところが始終蒼い顔をしては、つまらぬ愚痴ばかりこぼしていた。たとえば谷間の椿を見ると、この島には桜も咲かないと云う。火山の頂の煙を見ると、この島には青い山もないと云う。何でもそこにある物は云わずに、ない物だけ並べ立てているのじゃ。一度なぞはおれと一しょに、磯山へ<img gaiji="gaiji" src="../../../gaiji/2-15/2-15-30.png" alt="※(「蠧」
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