芥川龍之介 『西郷隆盛』 「君は今現に、南洲先生を眼のあたりに見なが…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 芥川龍之介 『西郷隆盛』

現代語化

「お前は今この場で、南洲先生を目の前にしながら、まだ資料を信じたいのか?」
「でも、一体お前が信じてる資料ってなんだよ?城山戦死説はひとまず置いておくにしても、歴史の判断ができるくらい正確な資料なんて、どこにもねえんだよ。誰だって事実を記録するときは、自然と自分の都合で取捨選択する。そういうつもりじゃなくても、事実そうするしかないんだ。つまり、それだけ客観的な事実から遠ざかるってことなんだよ。わかるだろ。だから一見あてになりそうに見えて、実は全然あてにならないんだ。ウォルター・ラレーが一度書いた世界史の原稿を捨てた話なんか、このことをよく表してるよ。お前も知ってるだろ。実際、俺たちは目の前のことすらわからないんだ。」
「それで城山戦死説だけど、あの記録だって怪しいとこはたくさんある。たしかに西郷隆盛が明治10年9月24日に、城山の戦いで死んだっていうのはどの資料も同じだ。でもそれは、ただ西郷隆盛っぽい人間が死んだってことだけなんだよ。その人間が本当に西郷隆盛かどうかは、また別問題なんだ。ましてその首とか首のない死体が見つかったって話になると、さっきお前が言ったように、いろんな説がある。そこも疑えば、疑えるはずなんだ。そんな疑わしいところに、お前は今この電車の中で西郷隆盛――いや、そう言いたくなければ、少なくとも西郷隆盛によく似た人間に会ったんだ。それでもお前は資料の方が信じられるのか?」
「でも、西郷隆盛の死体は確かにあったんでしょう。そうすると――」
「よく似た人間は、この世にいくらでもいるんだよ。右腕に古い刀傷があるとかいうのも、一人に限ったことじゃない。狄青が濃智高の死体を調べた話って知ってるか?」

原文 (会話文抽出)

「君は今現に、南洲先生を眼のあたりに見ながら、しかも猶史料を信じたがっている。」
「しかし、一体君の信じたがっている史料とは何か、それからまず考えて見給え。城山戦死説はしばらく問題外にしても、およそ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料などと云うものは、どこにだってありはしないです。誰でもある事実の記録をするには自然と自分でディテエルの取捨選択をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事実としてするのだから仕方がない。と云う意味は、それだけもう客観的の事実から遠ざかると云う事です。そうでしょう。だから一見当になりそうで、実ははなはだ当にならない。ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話なぞは、よくこの間の消息を語っている。あれは君も知っているでしょう。実際我々には目前の事さえわからない。」
「そこで城山戦死説だが、あの記録にしても、疑いを挟む余地は沢山ある。成程西郷隆盛が明治十年九月二十四日に、城山の戦で、死んだと云う事だけはどの史料も一致していましょう。しかしそれはただ、西郷隆盛と信ぜられる人間が、死んだと云うのにすぎないのです。その人間が実際西郷隆盛かどうかは、自らまた問題が違って来る。ましてその首や首のない屍体を発見した事実になると、さっき君が云った通り、異説も決して少くない。そこも疑えば、疑える筈です。一方そう云う疑いがある所へ、君は今この汽車の中で西郷隆盛――と云いたくなければ、少くとも西郷隆盛に酷似している人間に遇った。それでも君には史料なるものの方が信ぜられますか。」
「しかしですね。西郷隆盛の屍体は確かにあったのでしょう。そうすると――」
「似ている人間は、天下にいくらもいます。右腕に古い刀創があるとか何とか云うのも一人に限った事ではない。君は狄青が濃智高の屍を検した話を知っていますか。」


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