岡本綺堂 『半七捕物帳』 「大体のお話は先ずこれまでですが、どうです…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 岡本綺堂 『半七捕物帳』

現代語化

「大体の話はここまでですが、どうですか、あの変な男の正体……。わかりましたか?」
「わかりません」
「それはね。上総無宿の海坊主万吉というやつでした」
「へえ、あの生魚を食べるやつが……」
「そうです」
「九十九里浜の生まれで、子供の頃から泳ぎが上手で、2、3里は余裕で泳ぐというので、海坊主というあだ名がついたくらいのやつです。そいつがだんだん暮らしが悪くなって、27、8歳の頃にとうとう伊豆の島に送られました。10年ほども島で暮らしていましたが、もう我慢できなくなって、脱獄を考えました。でも、そう簡単には船があるわけじゃないから、泳ぎの得意なことを生かして、いっそのこと泳いで渡ろうと大胆に考えて、月のない晩に思い切って海に飛び込んだのです。いくら泳ぎが上手いからといって、一気に江戸や上総房州まで泳ぎ着けるわけがないから、その道中で荷船でも漁船でも何でも構わない、見つけ次第に飛び込んで、食べ物をせびって腹を満たして、あるところまで送ってもらって、また海に飛び込んで泳ぐという方法を取っていたんです。何しろ、変な人間が海のなかから突然出てくるんですから、たいていの人はびっくりしてしまって、もう、言う通りにするしかないわけですよ。そんな感じで房州方面へ……。最初は故郷の上総に帰るつもりだったそうです」
「恐ろしいやつですね」
「まさに恐ろしい奴ですよ。ところで、房州沖で喜兵衛の船に泳ぎついて、そこで飯を食っているうちに急に考え直して、故郷に帰るのは危険だと感じたんです。いっそこの船に乗せて江戸まで送ってもらおうと……。それから先は喜兵衛の言う通りですが、こいつがなかなかの図太い奴で、島破りのことなんかはもちろん言いません。わざと気違いなのか何なのかわからないような態度をして、厚かましく江戸までついてきたんです。しかも蛇の道は蛇で、この船が普通の船じゃないことを万吉は早くから見抜いていたので、江戸に着いてからも離れようとしなかったんです。離れたらすぐに路頭に迷うから、しつこく居座っている方が得です。こっちにも弱みがあるから、どうすることもできません。結局、品川の子分のところに預けられて、たらふく飲んで食って遊んでいる。流石の海賊もこんな奴に出会ったのは運の尽きです。そのうちだんだん調子に乗って喜兵衛の家に行きだします。おとわの家にも行く。それも飲み食いだけならまだしも、しまいには無理やりおとわを自分のものにしてしまったんです。おとわももちろん素直に言うことを聞くはずはありませんが、旦那の喜兵衛もおそれみたいなもので見逃していた変な奴に言い寄られて、怖さ半分の気分で流れに身を任せてしまったんでしょう。しかしそれを喜兵衛に打ち明けるわけにも行かないので、仕方なく万吉のおもちゃになっているうちに、私たちがだんだん介入してきました。女中のお千代が魚虎に呼び出されたので、おとわもこれはまずいと思ったんでしょう。物置に隠していた万吉を呼び出して、早くここから逃げてくれと言うと、万吉はそんなら俺と一緒に逃げろと言って、例の短刀を振り回す。もう旦那に相談する時間もなく、おとわは貴重品やおカネをかき集めて、無理矢理万吉に連れ出されて、嫌々旅に出たんです。昼間は近くのの森の中に隠れていて、夜になると千住の方へまわって、汐入堤のあたりに穴を掘って住んでいましたが、それも人の目に付きそうになったので、またそこを出て今度は神奈川の方へ逃げて行く途中、おとわが隙を見て逃げようとしたのが事件の始まりで、結局例の短刀で命を奪われることになってしまったんです」
「その万吉はどうなりました?」
「神奈川の町で金に困って、女の着物を売ろうとしたことから足がついて、そこで牢屋にぶち込まれることになりましたが、その時には髭なんかをきれいに剃って、頭を坊主にしていました。島破りの上に殺人犯ですから、引き回しの上で処刑されました。生魚を食べるのは、子供の頃から海岸で育って、それから10年以上も島で暮らしていたせいで、だんだん習慣になったからです。でも詳しく調べると、別に好んで生魚を食べるというわけじゃない。人を驚かせるためにわざと食べていたみたいです。これが本当でしょう。こうして調べてみると別に変わった人間でもないんですが、ただ不思議なのは潮干狩の日に嵐が来るのを事前に知っていたことです。それは長い間、島で暮らしていて、海や空を毎日見ていたので、自然と一種の天気予報を覚えたのだということですが、それが本当なのか、それともただの偶然なのか、本当のことはわかりません。でも万吉が留置場で今日は雷が鳴ると言ったら、果たしてその日の夕方に大きな雷が鳴って、16ヵ所も落雷したと伝えられて、明治になるまで牢屋の中で噂になっていたそうです」
「じゃあ、昨日はあの海坊主に天気予報を聞いていけばよかったんですね」
「まさにその通りですよ。でも、昨日はたまたまそんな奴が出て来なかったので。あははははは」

原文 (会話文抽出)

「大体のお話は先ずこれまでですが、どうです、その変な男の正体は……。お判りになりましたか」
「わかりませんね」
「それはね。上総無宿の海坊主万吉という奴でした」
「へえ、その生魚を食う奴が……」
「そうですよ」
「九十九里ヶ浜の生まれで、子供のときから泳ぎが上手で、二里や三里は苦もなく泳ぐというので、海坊主という綽名を取ったくらいの奴です。そいつがだんだんに身状が悪くなって、二十七八の年にとうとう伊豆の島へ送られた。十年ほども島に暮らしていたのですが、もう辛抱が出来なくなって、島ぬけを考えた。といって、めったに船があるわけのものではありませんから、泳ぎの出来るのを幸いに、いっそ泳いで渡ろうと大胆に工夫して月のない晩に思い切って海へ飛び込んだのです。いくら泳ぎが上手だからといって、一気に江戸や上総房州まで泳ぎ着ける筈はありませんから、その途中で荷船でも漁船でもなんでも構わない、見あたり次第に飛び込んで、食い物をねだって腹をこしらえて、あるところまで送って貰って、そうしてまた海へ飛び込んで泳ぐという遣り方をしていたんです。なにしろ変な人間が海のなかから不意に出てくるんですから、大抵の者はおどろいてしまって、まあ、云うなり次第にしてやるというわけで、廻り廻って房州の方へ……。はじめは故郷の上総へ帰る積りだったそうです」
「おそろしい奴ですね」
「まったく恐ろしい奴ですよ。ところで、房州沖で喜兵衛の船に泳ぎついて、そこで飯を食っているうちに不図かんがえ直して、故郷へうかうか帰るのは剣呑だ。いっそ此の船へ乗って江戸へ送って貰おうと……。それから先は喜兵衛の白状通りですが、こいつがなかなか図太い奴で、島破りのことなぞは勿論云いません。わざと気違いだか何だか得体のわからないような風をして、ずうずうしく江戸まで付いて来たんです。しかも蛇の道は蛇で、この船が唯の船でないことを万吉は早くも睨んだものですから、江戸へ着いてからも離れようとしない。離れたらすぐに路頭に迷うから、執念ぶかく食いついている方が得です。こっちにも弱味があるから、どうすることもできない。結局、品川の子分のところへ預けられて、鱈腹飲んで食って遊んでいる。さすがの海賊もこんな奴に逢ったのが因果です。そのうちにだんだん増長して喜兵衛の家へ押し掛けて行く。おとわの家へも行く。それも飲み倒しだけならいいが、しまいには手籠め同様にしておとわを手に入れてしまったんです。おとわも勿論素直に云うことを肯く筈はありませんが、旦那の喜兵衛も一目置いているような変な奴にみこまれて、怖いのが半分でまあ往生してしまったんでしょう。しかしそれを喜兵衛に打ち明けるわけにも行かないので、忌々ながら万吉のおもちゃになっているうちに、わたくし共がだんだんに手を入れ始めて、女中のお千代が魚虎へ引っ張られて行ったので、おとわもこれはあぶないと感付いたんでしょう。物置にかくしてある万吉をよび出して、早くここを逃げてくれと云うと、万吉はそんならおれと一緒に逃げろと云って、例の匕首をふりまわす。もう旦那と相談するひまも無しに、おとわは目ぼしい品物や有り金をかきあつめて、無理無体に万吉に引き摺られて、心にもない道行をきめたんです。昼のうちは近所の藪のなかに隠れていて、夜になってから千住の方へまわって、汐入堤あたりの堤の下に穴を掘って棲んでいましたが、それも人の目に着きそうになったので、又そこを這い出して今度は神奈川の方へ落ちて行く途中、おとわが隙をみて逃げようとしたのが喧嘩の始まりで、とうとう例の匕首で命を取られることになってしまったんです」
「その万吉はどうしました」
「神奈川の町で金に困って、女の着物を売ろうとしたのから足がついて、ここでいよいよ召し捕られることになりましたが、その時には髭なぞを綺麗に剃って、あたまは毬栗にしていたそうです。島破りの上に人殺しをしたんですから、引き廻しの上で獄門になりました。生魚を食うのは、子供のときから浜辺で育って、それから十年あまりも島に暮らしていた故ですが、だんだんに詮議してみると、なにも好んで生魚を食うというわけでもない。人を嚇かすためにわざと食って見せていたらしいんです。それがほんとうでしょう。こう煎じつめてみると別に変った人間でもないんですが、ただ不思議なのは潮干狩の日に颶風の来るのを前以って知っていたことです。それは長い間、島に暮らしていて、海や空を毎日ながめていたので、自然に一種の天気予報をおぼえたのだということですが、それはほんとうか、それとも人騒がせのまぐれあたりか、確かなことは判りません。しかし万吉が牢内できょうは雷が鳴ると云ったら、果たしてその日の夕方に大きい雷が鳴って、十六ヵ所も落雷したと云って、明治になるまで牢内の噂に残っていました」
「じゃあ、きのうはその海坊主に天気予報を聞いて行けばよかったですね」
「まったくですよ。ところが、きのうは生憎にそんな奴が出て来なかったので。あははははは」


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