岡本綺堂 『半七捕物帳』 「御承知の通り、江戸時代には天一坊をそのま…

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青空文庫図書カード: 岡本綺堂 『半七捕物帳』

現代語化

「でさ、江戸時代は天一坊そのままじゃアレだから、大日坊とかで誤魔化してたけど、明治になったら遠慮なくなったから、講談師の伯円さんが初めて語って大ウケ。芝居も河竹さんが作ったけど、やっぱそれ一番良かったらしいわ。年寄りが言うと嫌われるけど、もういい年になっちまったわ(笑)」
「天一坊って知ってるっしょ?でも江戸時代にはけっこう女版もいたんだって」
「そーいや女だけあって、将軍家の隠し子とかまでは言わんかったけど、男の天一坊ほど話題にはならなかったみたい。でも、ちっちゃいのはけっこういたらしいよ。で、その中でも有名なのが日野家のお姫様の件よ。確か文化4年の4月にお裁きがあったはず。町奉行所の文書には品川宿の貸座敷の妓だって書いてあるから、品川の娼婦さんね。そのお琴って妓が京都の日野中納言のお姫様だって言いふらして、世間で評判になったわけ。公家のお姫様が女郎になったってんだから、みんなビックリしたに違いないわ。お琴は奉公中に店を抜けて、浅草源空寺門前の善兵衛って人を家来にしちゃったんだって。で、日野家のお姫様になりすまして、正二位内侍局って肩書でウロウロしてたのが奉行所にバレちゃったの。お琴と善兵衛は取り調べを受けたけど、念のため京都に問い合わせた結果、日野家では知らないって返事だったから、結局お琴は遠くへ追放、善兵衛は手錠が命じられて一件落着よ。なんでそんな嘘ついたのか分かんないけど、たぶん品川の借金を踏み倒した上で、なにかで儲けようとして失敗したんじゃないかな。今で言う偽華族みたいな感じよ。それが江戸中をウワサになって、狂言作者の南総が『清玄桜姫』で仕組んで大ウケしたんだって。芝居は木挽町の河原崎座で『桜姫東文章』って名前だったらしいわ。前置きが長くなっちゃったけど、これから話すのはその日野家お姫様の件から50年くらい後の話で、文久元年9月だったと思う」
「悪天候で参っちまうな」
「よく降るもんだな。秋はいつもこうだよ、しょうがない」
「いや、この雨のせいで申し訳ないけど、ちょっと調べて欲しい用事があるんだ。この頃、茅場町に怪しいヤツがいるって知ってる?」
「へー」
「まあ、この頃はある程度怪しいヤツがあちこちにいるから、それだけで判断するのは難しいんだけど」
「その怪しいヤツってのは、女の行者なんだ。わりと年取ってるかもしれないけど、見た目は17か18くらいのきれいな女で、いろいろお祓いみたいなのをしてるらしい。まあ、それくらいなら見逃してもいいんだけど、どうも怪しいんだよ。女がきれいな上に、お祓いが上手いらしいから、最近結構信者もいる。その信者から金持ちっぽいヤツを奥の座敷に引きずり込んで、どうだかうまいこと言って大金を寄付させてるってウワサなんだよ。男だけなら色仕掛けでそそのかしてるんだろうけど、女もいるんだって。年配のおじいさんもおばあさんもいる。それがどうも腑に落ちない。まだ怪しいのは、そいつが京都の公家のお嬢様だって言ってるらしいんだよ。冷泉為清卿の娘で、左衛門局って名乗って、白い小袖に赤い袴、髪の毛を下げて紫の縮緬の鉢巻みたいなのをして、すごい威張ってるんだけど、さっきも言ったとおり、顔もよし、人柄もよしで、神様みたいな感じらしいよ。どうかな、本物だと思う?」
「どうなんでしょうね」
「京都に問い合わせてもらったんですか?」
「もちろん、一応問い合わせてもらってるよ。まだ返事は来てないんだけど、冷泉為清って公家はおらんらしいんだ。そうしたら、考えるまでもなく偽物だってことになるんだけど、今の時代だからなあ。ひょっとすると、本当に公卿の娘で、なにかの都合で適当な名前を言ってるかもしれないから。そこは調べないといけないね」
「仰るとおりでございます」

原文 (会話文抽出)

「御承知の通り、江戸時代には天一坊をそのままに仕組むことが出来ないので、大日坊とか何とかいって、まあいい加減に誤魔化していたんですが、明治になったのでもう遠慮はいらないということになって、講釈師の伯円が先ず第一に高座で読みはじめる。それが大当りに当ったので、それを種にして芝居の方でも河竹が仕組んだのですが、それが又大当りで、今日までたびたび舞台に乗っているわけですが、やっぱり書きおろしが一番よかったようですな。いや、こんなことを云うから年寄りはいつでも憎まれる。はははははは」
「天一坊のことはどなたも御承知ですが、江戸時代には女天一坊というのも随分あったもんですよ」
「尤もそこは女だけに、将軍家の御落胤というほどの大きな触れ込みをしないで、男の天一坊ほどの評判にはなりませんでしたが、小さい女天一坊は幾らもありましたよ。そのなかで、まず有名なのは日野家のお姫様一件でしょう。あれはたしか文化四年四月の申渡しとおぼえていますが、町奉行所の申渡書では品川宿旅籠屋安右衛門抱とありますから、品川の貸座敷の娼妓ですね。その娼妓のお琴という女が京都の日野中納言家の息女だと云って、世間の評判になったことがあります。その頃、公家のお姫様が女郎になったというのですから、みんな不思議がったに相違ありません。お琴は奉公中に主人の店をぬけだして、浅草源空寺門前の善兵衛というものを家来に仕立て、例の日野家息女をふりまわして、正二位内侍局とかいう肩書で方々を押し廻してあるいていることが奉行所の耳へきこえたので、お琴も善兵衛も吟味をうけることになりました。しかし奉行所の方でも大事を取って、一応念のために京都へ問いあわせたのですが、日野家では一切知らぬという返事であったので、結局お琴は重追放、善兵衛は手錠を申し渡されて、この一件は落着しました。なぜそんな偽りを云い触らしたのか判りませんが、おそらく品川の借金をふみ倒した上で、なにか山仕事を目論もうとして失敗したもので、つまりこんにちの偽華族というたぐいでしたろう。それが江戸じゅうの噂になったので、狂言作者の名人南北がそれを清玄桜姫のことに仕組んで、吉田家の息女桜姫が千住の女郎になるという筋で大変当てたそうです。その劇場は木挽町の河原崎座で『桜姫東文章』というのでした。いや、余計な前置きが長くなりましたが、これからお話し申そうとするのは、その日野家息女一件から五十幾年の後のことで、文久元年の九月とおぼえています」
「悪いお天気で困ります」
「よく降るな。秋はいつもこれだ、仕方がねえ」
「いや、この降るのに気の毒だが、ちっと調べて貰いたい御用がある。この頃、茅場町に変な奴があるのを知っているか」
「へえ」
「尤も、この頃は変な奴がざらに転がっているから、唯そればかりじゃあ判断がつくめえ」
「変な奴の正体は女の行者だ。案外に年を食っているかも知れねえが、見たところは十七か十八ぐらいの美しい女で、何かいろいろの祈祷のようなことをするのだそうだ。まあ、それだけなら見逃がしても置くが、そいつがどうも怪しからねえ。女がいい上に、祈祷が上手だというので、この頃ではなかなか信者がある。この信者のなかで工面のよさそうな奴を奥座敷へ引き摺り込んで、どう誤魔化すのか知らねえが、多分の金を寄進させるという噂だ。男だけならば色仕掛けという狂言かとも思うが、そのなかには女もいる。いい年をした爺さんも婆さんもある。それがどうも腑に落ちねえ。いや、まだ怪しからねえのは、そいつが京都の公家の娘だと云っているそうだ。冷泉為清卿の息女で、左衛門局だとか名乗って、白の小袖に緋の袴をはいて、下げ髪にむらさき縮緬の鉢巻のようなものをして、ひどく物々しく構えているが、前にもいう通り、容貌は好し、人品はいいので、なかなか神々しくみえるということだ。どうだ、ほんものだろうか」
「そうですねえ」
「京都へお聞きあわせになりましたか」
「勿論、念のために聞き合わせにやってある。その返事はまだ判らねえが、冷泉為清という公家はいねえという話だ。といったら、考えるまでもなく、それは偽者だというだろうが、なにぶんにも今の時節だ。ひょっとすると、ほんとうの公卿の娘が何かの都合でいい加減の名をいっているのかも知れねえからな。そこが詮議ものだ」
「ごもっともでございます」


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