TAKAGI-1 みくすと 総合版

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2011/04/09

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Energy-efficient?compact fluorescent light bulbs (CFLs)?are increasingly popular but few people recycle the bulbs. As a result, U.S. landfills are releasing more than 4 tons of mercury annually into the atmosphere and storm water runoff, a study says.?Supporters say that amount is still less than what would be emitted by coal power plants powering standard incandescent bulbs.

Photo:?The manufacture of incandescent lightbulbs is being phased out in the United States. Credit: Willis Glassgow / Associated Press


[ Posted Sat, 09 Apr 2011 09:39:03 ]

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1850年,ScotlandのGlasgowにIreland難民の両親の下に,一人の男の子が誕生しました.
 難民ですから,当然暮らしは貧しかったのですが,そのうち父親は一生懸命働いて小金を貯め,小さな食料品店を開きました.
 その中で育った男の子は,嬉々として商品を並べ,売ったりする事に興味を示します.
 或時,彼が卵を客に売っていた親父に言いました.

「オカンにタマゴ売りをやらせたらええんちゃうん.オカンの手は小っさいから,タマゴが大きく見えるやん」(Ireland人なので大阪弁でお送りしております)
 成る程と考えた親父も偉い.
 こうして,彼も商売の手伝いをする事になりました.

 彼が店に立つ時には,Scotland人にはScotland語で話しかけ,Ireland人にはIreland語で話しかける事で,客の信頼を勝ち取っていきます.
 誰しも,自分の育った国言葉で話しかけられるのは心地良いものですから.

 こうして商売のイロハを学んだ彼は,更に学校に通う為,近所の文具店で働き,その給料を学資に充てました.
 やがて文具店を辞め,給料のもっと高いシャツを作る店に転職し,売込み用の生地の見本帳を作成する仕事を始めます.

 13歳の時,毎日憧れて通っていた港で,大型帆船の進水を見て一大決心をし,両親を説き伏せて,蒸気船のキャビンボーイに転職しました.
 週給は8シリングと,結構賃金が高かったのも魅力でした.
 そんなある日,15歳になったばかりの頃,港にNew York行きの船を見かけます.
 船賃18ドルは,今まで蓄えたお金で支払い,残りは8ドルしかありませんでした.
 それでも,彼は新大陸に一歩を記したのでした.

 この時,彼は信用出来そうなIreland訛りの男を見つけ,こう持ちかけます.
「あんさん,船ん中にわての知り合いがぎょうさん居てまんねん.紹介したら礼してくれへんか?」
「よっしゃ,ほんまに10人以上連れて来れたら1週間宿代は只にしたる!」
 これが米国に於ける彼の最初の仕事でした.

 1865年の事,当時は南北戦争終結直後で経済状況が悪化していましたが,それでも彼は持ち前の才覚で,Virginiaのタバコ農園で働き,後にSouth Carolinaの農園で運転手になるなど,3年間,ひたすら働き続けました.
 そして3年後,New Yorkの百貨店の食料品売り場で働く口を見つけます.
 彼は水を得た魚の様に働き,仕事熱心で昇進も早く,このまま続けるとその百貨店でも経営者に成る事も出来たかも知れません.
 しかし19歳になると,彼はあっさりその地位を投げ捨て,再びGlasgowに帰って行きます.

 Glasgowに戻った彼は,直ぐに新しい荷馬車を準備し,両側に店の名前を入れ,それに乗って帰宅しました.
 荷台には,母親の為に一樽の小麦粉とロッキングチェアが載っており,懐には商売資金の500ドルが忍ばせてありました.

 21歳の誕生日に,彼は親父から独立して自分の食料品店を持ちました.
 扱い品は,父の店と同じくチーズ,ハム,ベーコン,バター,卵と言ったIrelandの産物で,店員は彼と手伝いの少年,それに猫1匹でした.

 彼は宣伝の才に長けていました.
 彼のモットーは,「商売は身体と宣伝が資本である」と言うもの.
 店に掲示板を掲げ,地方新聞の連載漫画や面白い絵,値札もスマートなものを造り出します.

 例えば,店頭にペンキで描いた大きなハムの看板を掲げます.
 これが夏になると暑さでペンキが滲んで柔らかくなり,さも脂がのった本物のハムに見える様に工夫したり.
 はたまた,一頭の泣いている豚を背負っているIreland人の絵を描き,Ireland人の台詞に,「このブタ,身寄りがおらんねんて.で,家族は全部彼の店にいるんやて.可哀想やさかい,わてが連れて行ってやりますねん.」…非常にブラックユーモアというか何というか.

 その広告が評判を呼ぶと,今度は良く太った2頭の豚のしっぽにリボンを結び,脇腹には「○○屋の孤児」と大きく書いた旗を立てて,2人のIreland人の格好をした男達と共に,町中を練り歩きました.
 彼らは,警察署の前にだけは行くなと厳命されていましたが,人混みと豚の力に負けて,警官の目に付いてしまい,人集りによって,荷馬車が通行出来なくなって遂に警官の出動と相成ってしまいました.
 当然,警察からは大目玉を食らったのですが,この事件は新聞に書き立てられ,更にこの店は有名になってしまいました.

 彼は更に宣伝の方法を考えます.

 店の入口に凸面鏡,出口に凹面鏡を置いて,入口の鏡に「私は○○の店に入る」と書いておいて,凸面鏡の効果で客の姿は細長く痩せて見える様に,出口の鏡には「私は○○の店から出て来た」と書いてあって,凹面鏡の効果で客の姿は健康的に太って見える.
 当時は,痩せは不健康だと思われていたので,この効果は絶大でした.
 更に,彼は太った若い女性を何人も雇い,「私は○○の店で買い物をします」という駕籠を持たせて町中を歩かせ,彼の店で食品を買うと健康的になると言うイメージを大衆に植え付ける事に成功しました.

 27歳になると,益々彼の才能は溢れ出て,終にはScotlandの大銀行が出している1ポンド紙幣と同じ大きさ,デザインそっくりの紙幣をも出してしまいます.
 王室の紋章の下に店の名前が書かれ,発行者の名前も彼の名前でした.
 その紙幣には,「Ireland産のハムとバター,卵の市場.私の経営する店は何処でも,ハムとバターに関しては15シリングで提供出来る」と書かれていました.
 当時,ハムとバターを他の店で買うと1ポンドはしたので,これは大幅な値引き広告.
 しかも,1ポンド紙幣と同じデザイン,大きさで,他店を皮肉ると言う事まで遣って退けました.

 1880年代になると,彼の店の名物は,Christmasに作る「チーズのお化け」でした.
 彼は作る前から,
「雌牛800頭6日分の牛乳で作ったチーズ.乳搾りの女性の数は20人」
と前宣伝を仕掛け,更にこのチーズには金貨を沢山入れて,その現場を大衆に公開しました.
 これをカットした日には,あっと言う間にチーズは売り切れになってしまいます.

「チーズの中に金貨を入れるのは違法」
と言われると,ビラでこう告知しました.
「チーズからもしも金貨が出て来たら,私の店にお返し下さい」.

「もし金貨を飲み込んだら死んでしまう.販売を中止しろ」
と警察から指導が来たら,
「私の店のチーズには金貨が入っていて,飲み込むと窒息する危険があります」
と言う,警察からのご注意と言う広告を新聞に出し,更にチーズは売れるという結果を生みだしました.

 彼の考えはこうでした.
「御店が2店になったら,利益は2倍や.御店の数が増えるだけ利益は増える」
 その考え通り,1号店開店から3年目に2号店が出来,半年後には3号店が出来ました.
 そして10年後には,店の数は20軒以上となり,800人以上の従業員を雇う一大企業に成長していました.
 因みに彼の座右の銘は,
「商売ほど楽しいものは他にない」
ですが,もう一つ,鉄則にしているものもありました.
「生産物は問屋からではなく,作っている人から直接購入する」
です.
 直接仕入れる事で,新鮮さは失われる事がありません.
 しかも,良品か否かは自分の目で確かめる事が出来ます.
 こうして彼は,Irelandに出かけて農産物を仕入れた他,米国から大量のベーコンを,Denmarkからは質の良いバターを仕入れたのです.

 その彼の名前ですか?
 彼の名前はThomas Lipton.
 今,日本人でも誰でも知っている,あの黄色いTea bagと赤字に白抜き文字のブランドの人です.

昔は,生協もこうした活動をしていたのに,今は全く食品商社ですねぇ.
 一体,何処でどう間違えたのか,初心に帰れと生協には言いたい.

 1880年代に入ると,英国では紅茶を日常的に飲む習慣が定着し,消費量も年々増加していきました.
 茶商たちは,取扱い店舗を増やそうと懸命で,Thomasの店にも目を付けました.

 彼も従来の父親の扱い品目とは異なる紅茶を扱いたかったのですが,先ず彼は:,紅茶の利益率を計算してみました.
 彼は実際にLondonの紅茶取引の中心街で茶葉を購入し,人件費,運送費,経費其の他を差し引いて,一体どのくらいで利益が出るのかを試算してみたのです.
 すると,一般の小売店が1ポンドの茶葉を2シリング6ペンスで売っているのに対し,1シリング7ペンスでも十分に利益が出る事が判りました.
 更に,彼の店で紅茶を売る際に,少しでも付加価値を付ける為,Tower Tea Co.のWilliam Long,Thomas Longと言う二人のブレンダーをヘッドハンティングして,オリジナル茶葉のブレンドを作り,これをTowerと言う商品とLondon Brokenと言う商品として販売しました.

 1シリング7ペンスの紅茶は,1889年の販売開始と同時に英国内にセンセーションを巻き起こしました.
 それは安く,それでいて香りも良く,味も最高という三大要素を全て含んだものだったからです.

 また,彼は紅茶の売り方にも工夫を施しました.
 今までのお茶の売り方は,大きな箱から茶葉を客の注文に応じて取り出し,カウンターの奥で量り売りすると言うもので,客はその量が正確か否か判断出来ない上に,客が立て込んでくると時間が掛かってサービスが十分に行き届かない所がありました.
 其処で彼の店では,予め茶葉を1ポンド,半ポンド,4分の1ポンドの量に計って袋詰めしておくと言う方法を採りました.
 これなら,客が押し寄せても直ぐに対応出来ますし,客は誤魔化しとかを気にする必要がありません.
 しかも袋にはブレンド名,茶葉の品質などの情報を印刷する事も出来ますし,一々箱を開けて湿気に晒して,新鮮さを損なう必要もありません.
 斯くしてこのアイデアも大ヒットし,売上が急増する事になりました.

 彼のアイデアは留まる所を知りません.
 同じ紅茶でも水質によって香り,水色,味が異なる事が判ると,地域毎にその水質に合ったブレンドをすると言う事を遣って退けます.
 これまた,自分の生まれ育った土地に愛着を持つ人々にとっては,Thomasの店の紅茶以外は紅茶ではないと言う刷り込みを与える結果になりました.

 更に,紅茶の袋にはブランド名を印刷するべく,印刷所を設立して,其処で袋の印刷を一手に行い,20カ国語の文とポスターを作って茶葉と共に送り出したり,狭い地区では数百人の男に中国人の扮装をさせ,胸と背にブランドの名前を書いた看板を付けさせて町中を更新させたりもしています.

 しかし,一つ物足りない所がありました.
 それは,幾らブランドを確立しても,彼のモットーである生産者からの直接仕入れではなかった事でした.
 1890年夏,彼はAustraliaへの航海の途次,セイロン島のColomboに立ち寄ります.
 丁度,Londonの銀行家から,この島の茶園が売りに出されているとの情報を得た為です.
 彼は到着の翌日から早速,Candyとその北側に拡がる茶の栽培地区を訪れ,1000mの高地に拡がる茶園を見学します.
 そして,現地を見て彼は,この茶園への投資の将来性を確信し,10万ポンド以上を投資して,島の南東部Uvaにある3,000エーカーの茶園の買収を手始めに,各地の茶園を買収した上,Colomboに,ブレンドとパッキングの工場を設け,其処から世界中に紅茶を輸出する体勢を整えました.

 この生産地でも彼のアイデアは尽きる事はありません.
 工場では,生葉を摘取る以外の人力は極力省き,機械化を進める事で,大量生産を可能にし,しかも品質の優れた茶葉を作り出す効率化が進められ,結果的に,何処の紅茶よりも安く,衛生的で品質の安定した良質茶を作る事が出来る様になりました.
 また,茶摘みの工程も,従来はタミルの女性達が急な斜面や足場の悪い土地で,摘取った茶葉を頭から吊し背負って運ぶ危険な作業を行い,実際に事故が多く効率も悪いものでした.
 其処で彼の茶園では,山頂から工場までロープウェイを敷設して,大量にかつ安全に運べる体勢を整えました.

 こうして帰国したThomasの事業は益々発展を続け,遂に彼は億万長者にのし上がります.
 しかし,この儲けは全部事業の拡大に注ぎ込み,私生活には殆ど使いませんでした.
 事業は工場,倉庫,流通,店舗,印刷に拡大し,従業員も1万人を超え,Glasgowを本拠にするのも不便になり,本社機能をLondonに移し,自分の事業を会社組織に変更しました.
 それでも生活は質素で,屡々,邸宅に戻らずに店のカウンターの中で寝込む事もありました.

 因みに,彼は生涯独身を貫きます.
 あるとき彼の友人が,彼に何故結婚しないのか,問うた事があります.
 彼の返事はこういうものでした.
「いやぁ,紅茶の値段が嫁はんを養うのには安おますさかいな.」

1890年,LiptonはCeylonの茶園で目ぼしいものを買収し,1894年には自社工場をColomboに建てて,ブレンドと製茶を行い,此処から英国に輸出する事にしました.
 その時に彼が用いたキャッチフレーズ,?Direct From The Tea Garden To The Tea Pot?は,英国国民に大反響を呼び,Liptonブランドの紅茶は,売れに売れ,自社の茶園では賄いきれない程になりました.
 其処で,やむなく,Londonのティーオークションで茶葉を手に入れたり,Colomboのオークションで茶葉を手に入れたりしました.
 1893年には,IndiaのCalcuttaにも買い付けの為の支社を設立し,茶葉の確保に努めていました.

 それより以前の1883年,彼は米国に紅茶を輸出します.
 その手法は,英国の様な小売店での展開ではなく,市場の大きさを見込んだ,卸売りとしての代理店を持ち,其処から末端に拡げるという手法をとりました.
 Chicagoに置いた米国のLipton代理店には注文が殺到し,その評判を聞いて,全米に支店を持つ大小売店チェーンや商人たちから紅茶扱いの申し込みが殺到しました.
 更に,効果的にLiptonブランドを宣伝する為に,Chicago万国博に自社の紅茶を出品し,見事に金賞を得た事で,名実ともに,世界のブランドとして,Liptonの紅茶は認められる事になります.

 Liptonが英国政府に支払う紅茶の輸入税は常にトップで,その輸入量は誰にも追い抜かれる事はありませんでした.
 その記録を更新するのは何時もLiptonだった訳です.

 さて,そんな自他共に認める大金持ちのLiptonですが,生活は質素で,散在をする訳でもなく,紳士としての嗜みである賭け事やら馬鹿騒ぎには一切参加しませんでした.
 と言っても,世捨て人でも変人でもなく,服装は何時もお洒落で,人には親切であり,貧者には特に進んで施しを与える様な人でした.

 1897年,英国ではVictoria女王即位60周年記念日に,皇太子妃の名で貧しい人々に求職を出すロイヤルディナーが計画され,皇太子妃はその資金の一部として100ポンドを寄付した,と「Times」に報じられました.
 Liptonもこの時,ディナーに必要な紅茶と砂糖を寄付したいと申し出ます.
 この事が評判となって,ディナーの企画は広く宣伝され,London市長からもお礼の言葉が丁寧に返されました.
 その答礼に市庁舎を訪れたLipton,市長に基金の集まり具合は如何かと尋ねると,未だ5000ポンドしか集まっておらず,可成り困っていると言う話が出て来ました.
 ディナーには3万ポンドが必要です.

 其処で彼は即座に小切手帳を出し,不足分2万5000ポンドを記入して,市長に手渡します.
 しかし,彼はこれは匿名の寄付として扱って下さいと言う風に言ったのです.

 こうして皇太子妃の面子は保たれ,かつ,匿名の寄付者が誰かで世間の噂は持ちきりとなります.
 報道は益々過熱し,彼の下にも何度も記者が訪ねてきましたが,彼はすっとぼけ,
「ええ? わてが寄付? そんな…2万5000ポンド,ポンと貸してくれる人がいたら教えて貰いたいですわ.」
と答えてみたり.
 10日に渡って報道合戦が続き,そろそろそれも沈静化仕掛けた時,Liptonは市長に,寄付者の公開を許しました.
 実は彼が寄付者だった事が判り,世間は喝采し,彼の名声は益々上がり,普段広告に使う分の2倍以上の効果を上げました.

 このロイヤルディナーの後,貧民に数ペンスで栄養のある食事を与えると言う,Alexandera基金が設けられ,彼はこれにも10万ポンドを寄付します.
 この基金の名前は皇太子妃の事で,彼はこの事業で王室と関係を深め,1898年にはknightの称号を受ける事になります.
 Sir Thomas Liptonの誕生です.

 この年から彼の事業は彼の個人商店から会社組織になり,彼は会長職に収まります.
 しかし会社組織になった事により,彼の手塩に掛けたブランドは法人格を持ち,自分の手を離れていきました.

 以後は,悠々自適の生活を送る事になります.
 が,1899年から1930年の間,彼が凝ったのが,アメリカズカップへの挑戦でした.
 彼は有り余る資金を背景に,Shamrockという船名のヨットを1世から5世まで相次いで建造し,このレースに参加します.
 これで1回でも優勝したのなら,話は出来すぎですがそうは問屋が卸さない.
 結局,彼は1回も優勝カップを手にする事はありませんでした.
 1930年,彼は80歳でしたが,Shamrock5世を駆ってレースに挑み,見事に負けました.

 そして,彼はこう言い残します.
「ヨットレースの結果がどうあれ,最高のヨットが勝つ事を信じている」
と.
 こうしたfair playの話に弱い米国人達は感激し,Liptonこそ英国を代表する最高の大使であると称賛して,アメリカズカップよりももっと名誉あるゴールドカップ,それは当時6000ドルもする高価なものでしたが,これは全て大衆の寄付によって集められたカップを,
「世界のベスト敗者」
と言う称号を付けて贈りました.

 因みに第一次大戦中,彼は自分が普段使っている蒸気エンジン付き大型ヨットを,自費で病院船として改造させ,英国政府に寄付する事もしています.

 1931年9月15日,彼は81歳で急死します.
 2日前の午前中まで,会食に出て,人々と言葉を交わした後,午後に寝室で倒れている所を発見されたのです.
 2日の昏睡の後,彼は息を引取りました.

 葬儀はGlasgowで行われ,彼は両親の墓のあるGlasgowの貧民墓地に埋められました.
 そして,当時の金額で700万ドルに達する財産を残しましたが,身寄りのない彼の遺言は,これを全てGlasgowに寄付し,病人と貧民を救う基金に充てられました.

 良いお金の使い方か否かは判りませんが,これは確実に生きたお金の使い方ではないかと思いますね.
 今の日本の企業経営者にどれだけこうした気概のある人物がいるのでしょうかねぇ(嘆.


[ Posted Sat, 09 Apr 2011 21:12:25 ]

British Force FAQ|軍事板常見問題&良レス回収機構 (via petapeta)


 


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[ Posted Sat, 09 Apr 2011 21:35:29 ]

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[ Posted Sat, 09 Apr 2011 21:35:32 ]

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[ Posted Sat, 09 Apr 2011 23:13:15 ]

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