>しかし [ 原子力潜水艦 シー・ウルフ級を ] 描いているうちに >いい型だなと感じるようになった >のは、やはり その性能・強さの >ゆえか。 >強さが美に通じるのは >生物と似ている ( かわぐちかいじ : 沈黙の艦隊 24 (講談社, 1994) 巻末・ 『沈黙の艦隊』制作ノート(5) より )
>そののち私は、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた絵を見た。...彼の翼は実に >しなやかそうで優美なのである。... 鳥を研究して翼の空気力学を理解していた >レオナルドは、実際にはたらきをもつ装置をガフリエルの背中に描きこんだのだ。 >その翼は美しいと同時に機能的でもあった。... ところが他の画家たちの >ガブリエルは、いかにも効力のなさそうな、役にも立たぬ不細工な飾り物をただ >背負っているだけだ。審美上の美と機能上の美とは手と手を取りあって(...) >両立するものだということに、私は気がついた。 > 自然界に見られる最高の美の実例---疾走するチータ、全力で逃げるガセル、 >悠然と飛翔するワシ、...---において、われわれが見事な形姿だと感じるものは、 >同時に物理学的な問題に対する見事な解決を物語るものである。... すぐれた >デサインは、ある生物の形態と技術者の作る青写真との対応によって表される >ことが多い。 ( スティーヴン・ジェイ・グールド 著 桜町翠軒 * 訳 : パンダの親指 (下) ** (早川書房, 1996) pp.193-194. より * 「桜」は、木へんに「嬰」 ** 原著 Stephen Jay Gould, THE PANDA'S THUMB More Reflections in Natural History, 1980 ) つまり、真実・合理たるものは生物同等の美をもつ、あるいはヒトはそれを美しい と感じるということである。真実を求める科学と、美を求める芸術の融合だと言える。 逆に言えば、機械の美は、真実・合理ゆえであり、そのような機械を、我々は生物 (=命あるもの)と同等に扱っているのだと考えてもよいだろう。