天下

天下は一人の天下にあらず
天下は天下の天下なり

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」(2014) 最終回の家康の台詞。(なお徳川家康が病床で外様大名に語った言葉であるとされている。)

これを聞いて、以下を想起した:

天下とは、民のなかにあり、民が天下人だと認識する人が、天下人である。

個人個人で異なる〈民のなか〉を、ある程度に統一したイメージに整える手段として、義務教育やマスメディアを挙げることができる。

発動の形式

石油化学産業の市場構造に関する調査報告を公表します(METI/経済産業省)

産業競争力強化法第50条(抄)
政府は、事業者による事業再編の実施の円滑化のために必要があると認めるときは、商品若しくは役務の需給の動向又は各事業分野が過剰供給構造にあるか否かその他の市場構造に関する調査を行い、その結果を公表するものとする。

ここから考えたこと:

権威による調査とその結果の公表は、強制力を孕んでいる。そう考えれば、司法は、警察等による執行の側面を抜きにしても、行政・立法とは異なる領域において統治のための強制力をもっているのである。この強制力は、明示的ではない。司法がもつ無恣意性は、その明示的でない強制力がもつ指向性を鋭くする。

さて、前記は「調べる」による、明示的でない強制力であった。

明示的でない強制力の源として、「問いかける」も、挙げることができる。公的機関・公人を例にとれば、政府首脳の発言によるアジェンダ(話題、解決すべき課題)の設定は、その一つの例である。そして、先の大戦後、昭和天皇が用いられた「ご質問」も、そうであったのだろう。

初出:
Facebook 2014/11/12

「あの素晴しい愛をもう一度」からの想起

2014/ 9/ 6、テレビで LION の CM を見たのさ。

歌は、「あの素晴しい愛をもう一度」の替え歌。

「あの素晴しい愛をもう一度」は、1971年の歌であるが、私にとっては、1998年 1月の映画「ラブ&ポップ」のエンディング曲としてのイメージが強い。

渋谷川を黙々と歩く、同映画の出演者たち。なお、髪型からすれば、向かって一番左は、仲間 由紀恵 女史である。

この映画の監督は、エヴァの庵野 秀明 氏 (なお、この映画の舞台は、1997年 7月19日に設定されており、これは「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」((いわゆる、『エヴァ旧劇場版』))の封切り日である)。

映画封切り前、1997年の年末深夜に、TV版「エヴァ」の一挙再放送がされていた。その際にCMに入っていたのが「ラブ&ポップ」であり、「あの素晴しい愛をもう一度」(歌は、主演の三輪 明日美)を何度も聞かされた。

この渋谷川を歩くシーンを思い出していて気づいたことが、2つある。

1つ目。これって、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版 破」の第8使徒戦において、使徒落下地点に向かって走る零号機(黄色)のシーンにオマージュされている、と。


の 1分26秒である。

なお、弐号機(赤色)が1分25秒に川を踏んづけるが、これは、TV版エヴァの拾弐話でも同様のシーンがある。TV版では、その後、弐号機が川に沿って走る横姿が描かれるが、水音が聞こえるものの、川は描かれず、また、繰り返すが、横姿であり、正面ではない。

気づいたこと 2つ目。映画「ラブ&ポップ」での「あの素晴しい愛をもう一度」の使用が、その後の、アニメーション「彼氏彼女の事情」のエンディングへの「夢の中へ」(元は、井上陽水。アニメでは主人公を演じる声優である、榎本温子・鈴木千尋)の使用、そして、「ヱヴァ 新劇場版 破」冒頭の「三百六十五歩のマーチ」、「Q」冒頭の「ひとりじゃないの」に、つながっているのではないか。

「エヴァ旧劇場版」の際に、庵野 秀明 氏は、こう語っていた

「これだけ情報があふれている時代に、オリジナルなんてどこにあるのか。様々なものからイメージをとりこんで、それをどこまで広げて再構築するか、なんですよ」
―― 朝日新聞 1997/ 7/24 夕刊

初出:
Facebook 2014/ 9/ 7

教養は

教養は、

(1) 知的所業のラストXマイル(ラスト・エックス・マイル)をつなぐ術である。

(2) 狭い情報を起点に、広い世界の一部を知るための術である。

これは、以下の思考から、帰納的に導かれた:

(1) 知的所業の、成果への最終接続、すなわち先端とは:

□ 世の中すべて、働き(=試行錯誤)・仮説・(後付けの)理屈だらけだ。(既存の)理論は、ラストXマイルを繋げることができない。

補足:
「ラストXマイル」は、「ラストワンマイル」から発想した言葉である。

「ラストワンマイル」は、「インターネット接続の最終行程」(Wikipedia, 2013年3月25日 02:05 の版) を指す。“ワンマイル”は、短いという意味を帯びている。「ラストワンマイル」は、それが短いにも関わらず、実現が困難である・コストが高い、という意味を持っている。

「ラストXマイル」は、“ワンマイル”ではなく、“Xマイル”とすることにより、短いかどうかを言及しない。「ラストXマイル」の長短は、その課題にあたる人の、課題と自らが持つ専門性の近さ、既往知識の探索・学習の進展度合いに依る。

科学用語における言葉選び

宇宙の実際的課題に取り組む最前線は、厳密な科学の領域ではない。そこにおいて仮説を立てる過程は、従来知からの類推、あるいは従来知を足の一つにした帰納である(その際に、科学が要求する厳密さは省かれる)。それを可能にする手段のひとつが、科学用語における適切な言葉選びである。

哲学と現実、科学と技術

ヘーゲルに言わせれば、哲学は、常に現実を後追いしているに過ぎない。

数学者や科学者達が必ずしも思い出したがらない事実だが、技術の相当数はまず成功した後にその理論的理解が生まれたのである。

(2) 広がり、という(1)のための手段、そしてその喜び:

学校法人 東洋英和女学院

(村岡 花子) 教育とは…知識を獲得するための勉強、また一つのものを創作していく過程においてその努力と研究の中に、無限の喜びを発見し得る感受性の育成である (引用 2014/11/12)

専門家は、開いた存在である

欧米では「情報と情報をつないで、そこに新たな意味を見いだせる人」が専門家として認められます。

洞察力ってのは「一見関係ないように見える二つの事柄の間に関係性を見つけること」だよ。


学術・教養は「結び技」である

学術・教養は「結び技」である。社会に出た後、取り扱う商品や専門技術の範囲内に閉じこもらず、それらを連携させて、全体を推進させていくためには、学術・教養の修養が必要である。

希望と誇り

希望と誇りは、目標と現状認識(形而上を含む)である。

(より詳しくは、 現状+誇り=現状認識 である。)

よって、希望と誇りは、認識上の、事の終点と起点であり、事を成す 可・不可に大いに関わる。

「猛獣論」では、「集合無意識に捕らわれた現実から理想に向かおうとして生じる力」を〈猛獣〉だと表現したが、ここでは拡張して、「現実から理想に向かおうとして生じる力」を〈猛獣〉だと考える。

希望(=理想)と誇りは、〈猛獣〉の前足と首筋であるのだ。希望と誇りがあれば、〈猛獣〉は存在する。その〈猛獣〉の強さを決定づけるのが、希望と誇りである。