司馬 遼太郎「坂の上の雲 4」

     

評価・状態: 得られるものがあった本★★☆



購入: 2009/11/27
読了: 2009/12/28

Twitter / TAKAGI-1: @yonda4 「坂の上の雲 4」 愚劣な乃木を軍司令にしたこと。その後の軍の凋落の種は日露戦争時点で植えられた。問題の中核は、それが修正されなかったことにある。あろうことか乃木を軍神にしてしまった。

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この本からの引用、または非常に関連する記事

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作戦命令のフレームワーク

記事ページ 発行: 2010年03月20日

司馬 遼太郎 : 坂の上の雲 4 (文春文庫, 1999) pp.268-269.

>児玉は卓上に小紙片を置き、
「いまから命令案を伝える。それを筆記し、総司令官閣下のご裁決をうけよ」
と、いった。
 児玉は、口述した。
「敵ハ、渾河ノ左岸ニ集結シツツアリ」
と、まず敵情を言い、つぎに総司令官の決心をいった。
「我ハ、敵ノ全ク集合ヲオワザル前、コレヲ撃破セントス」
 それが骨子である。この骨子に状況判断その他をつけくわえて総司令官のご認可を得よ、と児玉は命じた。


● 事態の緊急性

● 指揮者の決意

● 細目

関連:
指示の出し方
http://nhm.blog75.fc2.com/blog-entry-352.html

偵察における報告6要素 SALUTE
http://chiq.blog116.fc2.com/blog-entry-38.html

目標のあり方
http://nhm.blog75.fc2.com/blog-entry-266.html

 

織田信長と「坂の上の雲」

記事ページ 発行: 2010年02月28日

「坂の上の雲」1巻〜4巻における織田信長に関する記述を集めた。

司馬 遼太郎 : 坂の上の雲 1 (文春文庫, 1999) pp.266-267, 269.

 老教官は、おそるべきことをいった。
 ――騎兵は無用の長物だ。
という。
「古来、騎兵はその特性どおりにつかわれた例はきわめてまれである。中世以後、四人の天才だけが、この特性を意のままにひきだした。」
 かれはその四人の名前をあげた。

  モンゴルのジンギス汗
  プロシャのフレデリック大王
  フランスのナポレオン一世
  プロシャの参謀総長モルトケ

 老教官にいわせると、騎兵は歩兵や砲兵とちがい、純粋の奇襲兵種であり、よほど戦理を心得、よほど戦機を洞察し、しかもよほどの勇気をもった者でなければ、これはつかえない。

...

「つまり日本人を二人加えろというのかね。たれとたれだ」
 好古は、源義経と織田信長の二人をあげ、鵯越と屋島における戦法を説明し、織田信長については桶狭間合戦を語った。
 老教官はおどろき、何度もうなずき、以後六人ということにしよう、といった。


司馬 遼太郎 : 坂の上の雲 3 (文春文庫, 1999) p.285.

 戦術の要諦は、手練手管ではない。日本人の古来の好みとして、小部隊をもって奇策縦横、大軍を翻弄撃破するといったところに戦術があるとし、そのような奇功のぬしを名将としてきた。源義経の鵯越の奇襲や楠木正成の千早城の籠城戦などが日本人ごのみの典型であろう。

 ところが織田信長やナポレオンがそうであるように、敵に倍する兵力と火力を予定戦場にあつめて敵を圧倒するということが戦術の大原則であり、名将というのはかぎられた兵力や火力をそのように主決戦場にあつめるという困難な課題について、内や外に対しあらゆる駆けひきをやり、いわば大奇術を演じてそれを実現しうる者をいうのである。あとは「大軍に兵法なし」といわれているように、戦いを運営してゆきさえすればいい。


司馬 遼太郎 : 坂の上の雲 4 (文春文庫, 1999) pp.256-257.

 敵よりも大いなる兵力を終結して敵を圧倒撃滅するというのは、古今東西を通じ常勝将軍といわれる者が確立し実行してきた鉄則であった。日本の織田信長も、わかいころの桶狭間の奇襲の場合は例外とし、その後はすべて右の方法である。信長の凄みはそういうことであろう。かれはその生涯における最初のスタートを「寡をもって衆を制する」式の奇襲戦法で切ったくせに、その後一度も自分のその成功を自己模倣しなかったことである。桶狭間奇襲は、百に一つの成功例であるということを、たれよりも実施者の信長自身が知っていたところに、信長という男の偉大さがあった。

 日本軍は、日露戦争の段階では、せっぱつまって立ちあがった桶狭間的状況の戦いであり、児玉の苦心もそこにあり、つねに寡をもって衆をやぶることに腐心した。

 が、その後の日本陸軍の歴代首脳がいかに無能であったかということは、この日露戦争という全体が「桶狭間」的宿命にあった戦いで勝利を得たことを先例としてしまったことである。陸軍の崩壊まで日本陸軍は桶狭間式で終始した。

...

「日露戦争はあの式で勝った」
 というその固定概念が、本来軍事専門家であるべき陸軍の高級軍人のあたまを占めつづけた。織田信長が、自己の成功体験である桶狭間の自己模倣をせず、つねに敵に倍する兵力をあつめ、その補給を十分にするということをしつづけたことをおもえば、日露戦争以後における日本陸軍の首脳というのは、はたして専門家という高度な呼称をあたえていいものかどうかもうたがわしい。そのことは、昭和十四年、ソ満国境でおこなわれた日本の関東軍とソ連軍との限定戦争において立証された。

 この当時の関東軍参謀の能力は、日露戦争における参謀よりも軍事知識は豊富でありながら、作戦能力がはるかに低かったのは、すでに軍組織が官僚化していてしかもその官僚秩序が老化しきっていたからであろう。



 

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