釜石の橋野高炉――鉄鉱石と木炭による高炉製鉄

戻る

ユネスコ諮問機関イコモスが世界文化遺産への「登録」を勧告した「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」のなかのひとつに、釜石の橋野鉄鉱山・高炉跡があります。

橋野高炉(1858年~)では、鉄鉱石を原料に、高炉による製鉄が行われました。日本で従来行われていた〈たたら吹き〉では、砂鉄を原料に、〈たたら炉〉による製鉄が行われました(なお、〈たたら〉(鑪)は、炉に空気を送るふいご(鞴)の意味)。〈たたら炉〉はできた鉄を取り出す際に壊されます(つまり、1回きりしか使えない)が、高炉では連続的に製鉄ができます。

鉄鉱石を原料にした高炉による製鉄によって、鉄の大量生産・コストダウン、それによる社会の現在に向かった発展の道が開けましたが、橋野高炉を含めた幕末・明治初めの高炉では、まだまだ不足している重要な点がありました。

橋野高炉では、現在のようなコークス(:石炭を蒸し焼きにした燃料)ではなく、木炭(:木材を蒸し焼きにした燃料)が使用されたのです。

三陸ジオパーク | 34.橋野高炉跡

高炉操業に欠かせない木炭は、周辺地域の森林から製造され、

木炭を使用した製鉄では、森林がどんどん消えていきます。イギリスのネルソン提督は、グロスターシャーにあるディーンの森の状況に危機感を持ちました。ディーンの森周辺では、製鉄業が栄えていました。

日本でも、1880年に操業を開始した官営釜石鉄山は、木炭不足が支障になり、廃止されました。

彼島 秀雄 : 高炉技術の系統化. 国立科学博物館技術の系統化調査報告, Vol.15, pp.79-159 (2010-03) 91-92.

官営釜石鉄山

 第 1 次操業は明治 13 年(1880)9 月 10 日に開始したが、木炭の不足と小川製炭場の火災事故のため 97日で操業を中止した。総出銑量 1,508t、平均出銑量15.5t / d、還元材比(木炭比)1.429t / t であった。操業は順調であったが木炭消費量が当初計画に倍する 1 日 1 万貫(37.5t)を必要とした。
 木炭山は閉伊郡甲子村ほか 5 ヶ村に 2,800 町歩を有するに過ぎず、製炭場も小川 1 ヶ所のみでたちまち木炭の供給に円滑を欠いた。

釜石鉄山の調査に派遣された工部省の鉱山権少技長伊藤弥四郎による「釜石の鉱石埋蔵量はわずか 13 万 t 余に過ぎず、木炭材はわずか 4,000 町歩で高炉 1 日 1 万貫を使用するならば 2 ヵ年にて消費するであろう」との報告を受け、釜石での製鉄事業の将来性なしとして明治15年(1882)12 月に約 8 年間で官営釜石鉄山は廃止された。

近代製鉄ではありませんが、古来日本において製鉄で栄えた出雲では、森林伐採がすさまじく、大山(だいせん)あたりの植物の植生は、自然なものではないといいます。製鉄による環境破壊は、宮崎駿の「もののけ姫」において、描かれました。

「もののけ姫」の基礎知識 (抜粋: TAKAGI-1 たんぶら 2010/ 1/10)

一回の操業で使用した砂鉄十九トン、木炭十五トン(基礎部乾燥には更に一五〇トン)、得られた鉄五トン。操業数回で山一つ消滅したと言う。
 物語は、タタラが最も盛んであった出雲(島根県)で展開されているが、実際に出雲の地形は製鉄によって著しく変化したと言われている。弥生時代に、日本の原生林が多く消失していることも、渡来人による製鉄の開始が原因と言われている。

日本で初めて、木炭ではなく、製鉄にコークスが使われたのは、1894年、釜石鉱山田中製鉄所においてです。

彼島 秀雄 : 高炉技術の系統化. 国立科学博物館技術の系統化調査報告, Vol.15, pp.79-159 (2010-03) 93.

田中製鉄所でわが国製銑技術史上特筆すべきは、野呂影義、香村小録の指導で明治 27 年(1894)にわが国初のコークス高炉法が誕生したことである。

製鉄の原料が木炭からコークスに移行することによって、鉄の大量生産・コストダウンが可能になり、社会の現在に向かった発展が可能になりました。

戻る