目立つ技術の現代史。ソフトウェアから、軽なハードウェアとAIへ

私の中に1990年代から鬱積していたソフトウェア技術への憧れは、2000年にパソコンを持ち、インターネットに繋がり、そして Google が巨人になっていく様をみるにつれ、確固たるものになった。目立つ技術はソフトウェアにあった。

しかし、2007年の iPhone 登場から、目立つ技術はハードウェアに向かった。スマートフォン+ガジェット という組み合わせで新たにできることが広がったのだ。目立つのは、画面の中ではない。画面の外(ハードウェア。軽重でいえば、軽なハードウェア)である。

そして、任天堂は、ゲーム機+段ボールガジェット という組み合わせ「Nintendo Labo」(「はぁ~なるほど!」が飛び交った、『Nintendo Labo』のピアノをハンズオン | ギズモード・ジャパン, 本日発売「Nintendo Labo」の親子体験記【基本編】。驚きと感心の連続で,作る過程から面白い! – 4Gamer.net)を商品化し、段ボールガジェットの工作を遊びに組み込んだ。

2018年 現在は、見える軽なハードウェアと、見えないAI (深層学習を中心)が、 目立つ技術である。

これが、文化と相互作用している。

初出:
Facebook 2018/ 4/21

昔の乾電池

なお、乾電池は、日本人・屋井 先蔵 により発明された(1887年):

乾電池 – Wikipedia (2017年6月20日 (火) 21:34 の版)

乾電池は、小型湿電池の性能に不満を抱いた日本の時計技師屋井先蔵が、より取り扱いが簡素でまた日本の寒冷地でも使用可能な時計用小型一次電池「屋井式乾電池」を発明。

マーキュリー計画

「ドリーム 私たちのアポロ計画」邦題変更 「ドリーム」に – ITmedia ビジネスオンライン

[2017年] 9月29日公開の映画「ドリーム 私たちのアポロ計画」(原題:Hidden Figures)のタイトルが、6月9日「ドリーム」へと変更になることが決定した。「私たちのアポロ計画」という副題に対し、「アポロ計画ではなく、マーキュリー計画を扱った作品であり、内容に即していない」といった批判の声がファンから上がっていた。

映画『ドリーム 私たちのアポロ計画』邦題が酷すぎると炎上!何が何だかわからないタイトルに変更決定:はちま起稿

マーキュリー計画を描いた書籍・映画と言えば、「ライトスタッフ」があります。

岡田斗司夫ゼミ 2016年 7月24日号「模型でまなぶ宇宙開拓史~最高の頭が良くなるおもちゃレビュー」

(33分57秒から「ライトスタッフ」について)

関連:

マーキュリー・セブン – Wikipedia

そろばんが合体した電卓

【!?】そろばんが合体した電卓が存在していた!計算結果が信用できない人向けに設計 : ガールズ速報 がるそく!

Soro-cal (Sharp)

カシオ・純電気式計算機「14-A」(1957年商品化)

電卓草創期 – 電卓の歴史 – 電卓 – CASIO

樫尾俊雄発明記念館

技術解説 14-A の計算アルゴリズム

コンピュータを創った偉人たち

日本電子計算機株式会社(現、株式会社 JECC(ジェック)) JECC NEWS 2010年7月号~2012年12月号:

(1) ジョン・フォン・ノイマン(1903~1957年)
(2) アラン・チューリング(1912~1954年)
(3) ウィリアム・ショックレー(1910~1989年)
(4) ジョン・モークリー(1907~1980)/ ジョン・プレスパー・エッカート(1919~1995)
(5) チャールズ・バベッジ(1791~1871年)
(6) クロード・エルウッド・シャノン(1916~2001年)
(7) コンラート・ツーゼ(1910~1995年)
(8) ジョン・ヴィンセント・アタナソフ(1903~1995年)
(9) ハワード・エイケン(1900~1973年)
(10) ジェイ・ライト・フォレスター(1918~ )
(11) グレース・マリー・ホッパー(1906~1992年)
(12) ブレーズ・パスカル(1623~1662年)/ ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646~1716年)
(13) ヴァネヴァー・ブッシュ(1890~1974年)
(14) ジョージ・ブール(1815~1864年)
(15) エイダ・ラブレス(1815~1852年)

口蹄疫と自動車エンジン

Weekly Report: ○コンセントは? EVに思わぬ難敵 (2010/ 7/21 確認, 現在ページ消失)

ガソリン自動車が蒸気自動車を駆逐した経緯は、口蹄疫の蔓延で馬用の水桶が失われ、インフラの優劣が逆転した事にその発端がある。

梶井 厚志 : 戦略的思考の技術 (中公新書, 2005) p.134.

口蹄疫は1914年北アメリカでも大流行したのであるが、一説によるとこのときの口蹄疫の流行が、現在の自家用車にガソリンエンジンが搭載されるきっかけになったという。というのも、当時は蒸気エンジンも自家用車の動力として使われていたのだが、口蹄疫の流行を防ぐために馬用の水桶が撤去されてしまい、水道の普及が都市部にとどまっていた当時では、蒸気エンジンを搭載する車は動力源の水の補給を断たれてたいそう使いにくいものになってしまった。そのため、水を必要としないガソリンエンジンの研究開発が盛んに行われたというのである。

奥村 憲博 : 経路依存, ロック・インとグローバル・エネルギー戦略. IEEJ (2007年3月掲載).

 現在はガソリン車が市場を支配しているが、20 世紀初頭では、それぞれに不確実性を有した蒸気エンジン車、ガソリンエンジン車及び電気自動車の3つの候補が、競争を展開していた。内燃機関も、適正な品質等級のガソリンが得られにくいこと、危険であること、内燃機関エンジンはより多くの洗練された作動を蒸気エンジンより必要とされること等、多くの欠点を有していた。当時の蒸気エンジン車は、技術的・経済的両面でガソリンエンジン車と同等であった 6)。

 しかしながら、次のように歴史はガソリン車に有利に展開し、

・ 電気自動車にとっては、当時の米国の電力グリッドが地方には展開していないことがハンディ

・ 蒸気エンジン車にとっては、口蹄疫という伝染病が馬にはやったことから道路脇に水桶を設置することが条例で禁止されたことがハンディ

そして最初の 10 年間で、ガソリン車は、電気自動車及び蒸気エンジン車を数桁のオーダーで引き離した 7)。もし最初の自動車の出現が 20 年程度後れていたとしたら、今日の自動車のエンジンは、. 内燃機関ではなかったかもしれない 8)。当該事例は、ある意味典型的な経路依存性を示している。

6) D. Kirsch; Flexibility and Stabilization of Technological Systems: The Case of the Second Battle of the Automobile Engine (Program in History of Science and Technology, Department of History. Stanford University), (1995).

7) J. Foreman-Peck; Technological Lock-in and the Power Source for the Motor Car, Discussion Papers in Economic and Social History, Vol7(University of Oxford), (1996).

8) B. W. Arthur; On Competing Technologies and Historical Small Events: the Dynamic of Choice under Increasing Returns, Working Paper (IIASA, Austria), (1983) 83-90.

東京理科大学近代科学資料館、計算機の歴史から技術の進歩をたどる

東京理科大学の近代科学資料館には、ブッシュ式アナログ微分解析機をはじめ、計算道具・計算機のコレクションが展示されています:

動画に登場する計算道具・計算機:
 ・算具・そろばん
 ・機械式計算機
 ・電子式卓上計算機
 ・大型計算機(ブッシュ式アナログ微分解析機・パラメトロン計算機・UNIVAC 120 [真空管計算機])
 ・計算尺
 ・三元連立方程式を解く実験機

微分解析機再生プロジェクト
微分解析機 全天球画像 | RICOH THETA

松下村塾――吉田松陰と山尾庸三と工学の誕生

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ユネスコ諮問機関イコモスが世界文化遺産への「登録」を勧告(2015年5月4日)した「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」には、吉田 松陰 の松下村塾が含まれています。

なぜ「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」に、松下村塾が含まれているのでしょうか?

その答えを、5月6日のTBS「ひるおび!」において金谷 俊一郎 氏が解説されていました。吉田 松陰 は、「工学教育論」を唱えていた。門下の伊藤 博文 は、イギリスのグラスゴー(イギリスを代表する工業都市)に留学し、初代 工部卿になった、と。

萩エリア~萩市の資産 松下村塾 – 萩市ホームページ

工学教育論を提唱した吉田松陰の実家と塾舎

松陰は海防の観点から工学教育の重要性をいち早く提唱し、工学の教育施設を設立し在来の技術者を総動員して自力で産業近代化の実現を図ろうと説きました。その教えを受け継いだ塾生らの多くが、後の日本の近代化・産業化の過程で重要な役割を担いました。

これをきっかけに、いろいろ調べてまとめました:

伊藤 博文 は、ともにグラスゴーに留学した山尾 庸三 とともに、工学寮(後の東京大学工学部の前身のひとつ)を設立します(1871年)。山尾 庸三 は、松下村塾出身ではありませんが、留学前から二人は見知った仲であったと言われています(二人で、「群書類従」の編纂者・塙 保己一 (塙検校)の息子である、国学者・塙 忠宝 を、暗殺したと言われます)。

工学寮が学生を得た1873年、初代都検(教頭。実質的な校長)として、グラスゴーから、ヘンリー・ダイアー (Henry Dyer)が赴任します。なお、1873年において、工部省のトップである工部卿は、伊藤 博文 。工部大輔は、山尾 庸三 です。

ヘンリー・ダイアーは、熱力学のウィリアム・ランキンの弟子ですが、山尾 庸三 の学友でありました。伊藤 博文 ・山尾 庸三 を通じて、吉田 松陰 の「工学教育論」は、技術決定論同様のグラスゴーの思想(下記引用)と、つながっていたのです。

ヘンリー・ダイアー – Wikipedia [2015年3月2日 (月) 13:43 の版]

ダイアーの教育思想を育んだ背景は、大英帝国の発展を支えた「機械の都」スコットランド・グラスゴーに根づく「エンジニアの思想」であったと考えられる。「エンジニアの思想」とは、ヴィクトリア期スコットランド人技師によって生み出されたもので、「エンジニアとは、社会進化の旗手であり、生涯、研究・創作していく専門職である」という考え方である。

これが、「工学の誕生」の重要な点であったと考えます。

なお、伊藤 博文 は、1882年にウィーンにて、「大学で生産される知と知識人をまって初めて国家の体制は確立される」との考えに至り、第1次伊藤博文内閣において、帝国大学は設立されます(1886年)。教育を起点にする考え方は、工学寮に通じるものを感じます。

補足:
「工学の誕生」の下地として、以下があったと考えます:

・技術に焦点を当てたフランスの「百科全書」、およびその土壌となるブルジョアジーの強大化

ディドロ, ダランベール=編, 桑原 武夫=訳編 : 百科全書―序論および代表項目 (1971, 岩波文庫) p.398.

多田 道太郎による解説「『百科全書』について」より。

 なぜ百科全書派は技術を重視したのか。理由はかんたんである。それがブルジョアジーの利益になるからである。総じていえば「所有が市民をつくる」というブルジョア的立場が『百科全書』のほとんどを貫いており、したがってブルジョアの武器、道具としての技術が、新しく重視されることになったのである。

大阪府立図書館~フランス百科全書 図版集 ( 2004/05/12 )

・ヘーゲルの「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」の考え方

未踏であるほど、知能は知性に先行する
哲学と現実、科学と技術
ミネルヴァの梟

初出:
Facebook 2015/ 5/ 6

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